( ゚Д゚)<時間の微分・2

「      狼男に関する問い。「体内化された」手紙は宛先に届くのだろうか? そして、もし与えること、与えることそれ自体も取り込まなければならないのであれば、人は自分とは別の女性に与えることができるのだろうか? 私たちはかつて互いに与えあったのだろうか? もし私たちが何かを与えあったのなら、私たちは何も与えあってはいない。だから私は、ますますすべてを燃やす必然性があると信じる、私たちのあいだに起きた(与えられた)ことを何ひとつ取っておくべきではない、という必然性を信じる。それは私たちの唯一のチャンスだ。
      もう自分に〔を〕許さないこと(s'permettre)〔sperme(精液)+mettre(置き入れる、注ぐ)。造語〕。そして、私がとくに君に対して権力や所有を確保したいようにみえるとき、こう言ってよければ、君が何らかの「原因」(cause)〔訴因、問題の中心〕とみなされているときは、それは私が傷ついているということ、死ぬほど傷ついているということだ。
      どのような様態であれ(吸われ、飲まれ、嚥下され、咬まれ、消化され、呼吸され、吸い込まれ、嗅がれ、見られ、聞かれ、理念化され、暗記して把捉されたのであれ、誰かから奪い取られたのであれ、思い出されてであれ、思い出される途中であれ)、「内面化された」手紙を、君の身体のある場所に閉じ込められたままにして手紙を「体内化する」ことで満足せず、持ち歩き、今現在、声に出して、むき出しのまま君自身に宛てるとき、それは、宛先に着かないこと、しかもかつて以上に着かないことがありうる。手紙は、他者において手紙自身に到達するに至らないことがある。それは、「取り込み」における私〔=自我〕の悲劇だ。自己を愛するためには──いや、私の愛する人よ、愛するためには──愛しあう必要がある。
      ひとつの日付、たとえば封書の発送の日付は知覚されない、人にはけっして日付が見えない、日付は、私には、どのみち意識には、届かない、厳密にその日付が生起した時、人が日付を打ち、署名し、発送した時には、それは届かない。そこにあるのは、何らかの偽の自明性と半-喪だけだ。すべては何らかの取り除きのうちにある。
      もう出かけなければならない。精神分析セアンスの後で、私たちは落ち合うことになっている。これが最後となるだろう、今年最後の、とはもう言えない、今は人と会う約束すべてが私に苦痛を与える。私たちの時間はもう同じではない(一度も同じだったことはない、分かっている、でもそれは、前はチャンスだった)。君は電話で「もとには戻せない」という言葉を使った、とても軽く、私は息が止まる思いだった(彼女は気でも狂ったのだろうか? つまり死んだのだろうか? だが、彼女は死そのものだ、そのことに気づきもしていないのだろうか、この軽率な女性は? 彼女は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか? 分かっていたことがあるのだろうか? 「もとには戻せない」という語は私には、包み隠さずに言えば、阿呆らしく思えた、と君の婦人帽子屋かく語りき)。でも、今晩は陽気でいようと決めている、見ていてほしい。」
ジャック・デリダ「送る言葉」)

( ゚Д゚)<時間の微分

「時間が一刻ずつ、いわば粒立って、緩慢に傾いてこぼれていくのを、永遠に過ぎ去らぬ苦のごとくうっとりと受け止めている、そんなことがあったな、とその翌日の仕事の最中に、手はやすめずに杉尾は思った。まだお話しにならぬほど若かった頃だ。つぎの時には許すと約束した恋人に、いよいよ逢いに行くその前日の暮れ方か、その当日の正午を過ぎる頃か、そんな時刻だ。唇をもどかしく触れあって、相手にはっきりとうなずかせておきながら、温い女の身体がいまこの腕の内にあるのに、わざわざ十日後だとか、二十日後だとか、思いきって遠くへその日を定める。あれが、いまから思えば、豪勢なものだった。十日、二十日という時間を、人を思う心で一色に染める了見でいた。日一日と思いが濃くなり、草が伸びて木の葉が暗くなり、雨が降って女の身体の中でも思いが熟れていき、しかもお互いに濁らない、ますます醇化した力を集めていくと感じていた。逢う前日の暮れ方に、ここまで来て時間がもう半歩も先へ進まなくなった、そんな静かさが降りてきて、雲が紫色に焼けはじめる。それすらお互いの思いの色の飽和と眺めることができた。
 老いるのはまず心身だが、それぞれ時間そのものが老いる、とも言えはしないか、と杉尾は考えた。年月ばかりがとめどもなく過ぎて、じつは時間が前へ流れにくくなっている。往々にして逆流しかけて、やがて身のまわりにゆるやかな渦を、とぐろを巻く。十日前だとか先だとか、いや、どうかすると昨日明日の区別さえ、頭で確め確めしているだけで、ほんとうのところ、自然にまかせれば、よくは感じ取れなくなっている。腔腸動物の類いが游走期を終えて、時間の流れのゆるやかな、海の底に沈着する。生長しきると、流れはさらにゆるやかになり、わずかに、熟れた触手がゆらめいている。あれで餌だけは、獰悪なぐらい素早く胎内に取り込む、他者の時間を。
 しかし喰って生きる動物の時間もまた考えてみれば空腹と満腹の、晴れ陰りみたいな循環で、一瞬にして餌を獲る反射運動も空腹の影みたいなもので、全体としてはやはりとぐろを巻いているのではないか。人間の毎日毎日の稼ぎもときおりの飢餓の、その一瞬の冴えによるささやかな獲物の、取り入れに暇がかかっているだけのことかもしれない。」
古井由吉『槿』)

( ゚Д゚)<サドマゾヒズムを擁護しない

「近代においてサドマゾヒズムがしだいに重要性を増しているのは、この入れ替わり〔都市と閨房の、公的なものと私的なものの、剥き出しの生と政治的実存の入れ替わり〕に根がある。というのは、サドマゾヒズムとはまさしく、相手の内に剥き出しの生を現出させるセクシュアリティの技術のことだからだ。サドマゾヒズムと主権権力の類比は、サドによって意識的に指摘されている(「勃起しているときに、専制君主になろうと思っていない男は一人もいない」)。だが、ここでホモ・サケルと主権者のあいだに見られる対称性は、マゾヒストをサディストに、犠牲者を虐待者に結びつける共犯性の内にもみられる。
 サドの今日性は、非政治的な我々の時代においてセクシュアリティが非政治的な優位を占めることを予告したというところにあるのではない。彼の現代性はその反対に、セクシュアリティや生理的な生自体のもつ絶対的に政治的な(つまり「生政治的」的な)意味を比類のないしかたで露出させたことにある。シリングの城では、生理的な生のいかなる局面をも見逃さない(消化機能でさえ、強迫的なしかたでコード化され公にされる)詳細な規則が定められているが、そこでなされている生の組織化のもつ全体主義的な性格は、今世紀の収容所同様、剥き出しの生だけを基礎とする人間の生の標準的かつ集団的な(つまり政治的な)組織化がはじめて思考されたというところにその根をもっている。」
ジョルジョ・アガンベン「近代的なものの生政治的範例としての収容所」)

( ゚Д゚)<職業:反キリスト・2

「〈それでもぼくは、まったくけっこうな真実をやつにはきかけてやった。しっかり肝に銘じることだ! 嚥み下すのにきっと苦労することだろうよ! 何回でも噛みなおすがいい! それこそ最上の心霊修行というものだ。告解師ロレ神父の手当を受けるのに打ってつけの魂のさしこみだ… しかし彼にはまだのこっているだろうか? 自分にかゆみをあたえているのがどんな疥鮮なのか、自分でみとめるだけの正直さが? おやおや、あいつのおかげでぼくもなかなかのイメージを思いつくようになっているぞ。こういうイメージが新しいのかどうか、ぼくは知らない。しかしそんなことはどうでもいい! とにかく奥が深くて意味深長だ。われわれ一人一人とおなじように、彼らにも彼らの疥鮮やしらくもやら鼻疽やらトレポネーマ〔梅毒病原菌〕があるのだ。しかし彼らのそれは、きわめて特殊なやさしさだ。教養のスープの上澄みだ、猛烈な錠剤だ。いや、まったく! ぼくらのほうは純粋なんだからな! なんということだ。修道院長さまも、小っちゃなお庭にちゃんと梅毒をおもちなんだからな! 下疳がチンポコの端で神父さまをつかまえている? ああ! 呆れるしかありませんね、シスター! ぼくたちの純潔な目は、そういう恥ずかしい部分から逸らされる。シスター、おけつまるだしのあなたをみる? 重大な罪だ。ここに全能の神の膏薬がありますよ。小っちゃな丘に塗りつけたらどうです? しかしとりわけお目目はつぶっていることだ! 心配することはない。下のほうで豪勢に腐るでしょうよ… そうなんだ、連中はとろ火でじっくり煮こんだような壊疽を抱えこんだ人種なんだ。五百年もまえから忘れられた横根だの癩病だのを温めている。悪臭を放つ種族の最たるものだ。なんという立派な最近の巣だろう! 箒でひと掃きしたこともなければ、一筋の日がさしたこともない。そいつを隣人にうつしてやれば、それが幸福だというのか? ご立派な説明だ! このうえなく敬虔な梅毒さんよ、あんたは五大陸のなかでもいちばんみごとな瘰癧病みだの、いちばんかわいらしい水頭症患者だのにしっかり根をはっているわけだけれど、ぼくたちもしばしばキリスト教徒の結婚のことは考えましたよ。魂にもお尻にもビデの使用は禁じられている。キリスト教の伝播というやつは、すべてに根をはるのだ。脊髄にも心にも〉」
(リュシアン・ルバテ『ふたつの旗』)

( ゚Д゚)<決意としての忘却

「かくしてわれわれは二つの点を確認するに至った。つまり、ハイデガーは彼が自分で言うより以上に聖書の宇宙に近接しており、レヴィナスは自分でそう思っているより以上にハイデガーと近接しているのである。では、レヴィナスハイデガーのテクストを「読み損なった」のだろうか。レヴィナスは、自分の思想ならびにそれを培っている土壌とハイデガーとの近接を「看過」したのだろうか。たぶん、レヴィナスが『存在と時間』ほどにはハイデガーの晩年の論考に親しんでいなかったというのは本当だろう。けれども、そう言っただけでは決して十分ではない。私が思うに、他の誰よりもレヴィナスは、ユダヤ的伝統のなかに潜むものとして彼によって展開されたような〈他なるもの〉についての思考にハイデガーを近づけるものすべてを熟知していた。ところが彼はまた、広範でかつ決定的な省略をおこないつつ、たとえこの近接がいかに大きなものであれ、両者を隔てる隔たり、それも根底的な隔たりを考慮するなら、この近接はなにものでもなく、完全に無視してよいものであるという点も知っていた。根底的な隔たり、というのは、他者性のいかなる構造がハイデガーの仕事を貫いているとしても(たとえば贈与、迎接、受動性、記憶、感謝、約束、救済等々)、まったき具体性としての〈他なるもの〉はハイデガーの仕事には実は不在であるからだ。ここにいう〈他なるもの〉とは超越としてあるような神であるが、それはまた、いやなによりもまず他者の顔にその痕跡を残している。レヴィナスがまず初めにハイデガーの仕事のなかに見分けたのはまさにこの広大な不在であって、そのことが原因でレヴィナスは、他者性の名において語りうると称する一切の権利をハイデガーには認めないところまで行ったのだ。というのも、他者性の唯一の場がハイデガーの仕事では決定的な仕方で見誤られており、のみならず抹消されているからだ。
 したがって、こう言うことができる。ハイデガー的な意味での存在を〈他なるもの〉に近づけうるようなすべてのものをレヴィナスは「忘却している」のだ、と。もっと大きく言うなら、ハイデガーの仕事のなかでヘブライ的宇宙を想起ささえるものすべてを「忘却している」のだ、と。しかしこの忘却は決意である。熟慮にもとづく決意であって、それは、「本質的な点」だけを「数える」ために頭数を増やすことを放棄しつつ、ある一つの隔たりを正確に測ろうとする決意なのだ。ところで、エルサレムからわれわれにもたらさせる遺産のなかで本質的な点──少なくともレヴィナスというこの遺産相続人の眼に本質的な点とうつったもの──、それは単なる諸構造ではまさしくなく、それらの構造のうちに受肉した〈他なるもの〉であって、それのみがこれらの構造に意味を与えるのだ。」
(マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーヘブライの遺産』)

( ゚Д゚)<絶対的に具体的なもの

「こう言ったからとて、カフカ自身がおしまいになったという意味ではない。逆に僕はこれまで紡ぎ続けてきた一連の考察をもとに、これからもカフカを考え続けて行くつもりだ。──君のシェップス宛の手紙に書かれている注目すべき発言には、僕にまだまださまざまなことを教えてくれるものが含まれているからでもある。君はそこにこう書いている、「歴史的時代に関しては、啓示の言葉の……〈絶対的な正しさ〉……以上に具体化する必要のあるものは……ない。絶対的に具体的なものは、実現されえないものそのものだからだ」と。ここには確かに、無条件にカフカに当てはまる一つの真理が表明されていて、まさにここにカフカの挫折の歴史的局面を初めて明確にする視点も開けているように思う。」
(「ヴァルター・ベンヤミン/ゲルショム・ショーレム往復書簡 ベンヤミンからショーレムへ〔65〕」)

( ゚Д゚)<ギリシャ-存在論/ヘブライ-倫理学

レヴィナスの仕事はおそらく、ヘブライ的宇宙に記載された数々の可能性へと現代の哲学的思考を目覚めさせるのにもっとも貢献した。とはいえ、レヴィナスの仕事にそれが可能だったのは、不屈の媒介者として、彼の仕事が「ギリシャ的叡知」との対話のための要素すべてを「ユダヤ的叡知」から汲み取り、そうすることでまずヘブライ的宇宙の「哲学への参入」を可能にしたからであった。
アテネの節度」と「エルサレムの激発」はこうして互いに関係づけられることになる。両者の差異を抹消することなくその連繋を造り出すこと、それがレヴィナスの努力のすべてなのである。「ギリシャが知らずにいた諸原理をギリシャ語で言明すること」、それは、ギリシャ的な着想を有してはいないにもかかわらず厳密なある思考を哲学の領野に到来させることなのだ。
 このような思考──まさにレヴィナスの仕事が練り上げようとしているもの──はまずもって、〈まったき他なるもの〉と解された〈他なるもの〉についての思考であろう。もちろん〈他なるもの〉は哲学の関心をたえず占めてきたのだが、例外を除くと、哲学はそれを還元することなしには〈他なるもの〉を見いだすことができなかった。それというのも、その最初のギリシャ的な方位に即して、哲学は存在についての思考にとどまってきたからだ。ところで、存在についての思考は根本的に〈同一者〉についての思考である。「西洋哲学は、〈他なるもの〉が存在として現出することでその他者性を喪失してしまう、そのような〈他なるもの〉の開示と一致している。その幼年時代から、哲学は〈他なるもの〉でありつづけるような〈他なるもの〉への恐怖に、克服不能なアレルギーに取りつかれている。それだから、哲学は本質的に存在についての哲学なのである。」
 しかしながら、「何か」が同一者の支配に抵抗している。「なにものでもないもの」にはまさに還元不能な何かが。他者である。他者の出現は、右に描かれたような秩序を断絶させ混乱させる。他者の出現は、〈同一者〉が始原たることを、自己に平和に休らうことを阻止する。したがって、まさにこの点にこそすべてが懸かっていることになる。……
 つまり、哲学が存在論として定義される限りにおいて──実際、存在論という語が欠けていたにせよ、哲学はギリシャで生まれたときから存在論であったのだが──、哲学は〈他なるもの〉をたゆまず探究しつつも決してそれらに達することができない。というのも、哲学は〈同一者〉の領分たる存在の領分を離れることがないからだ。ところが、聖書とタルムードの二重の教えに養われた思考は〈他なるもの〉を〈他なるもの〉として見いだすことができる。哲学が空しく探し求めているこの〈まったき他なるもの〉を。この種の思考はあくまで哲学的に〈他なるもの〉を見いだすのだが、ただし存在論において〈他なるもの〉と出会うのではなく、倫理において出会うのだ。「絶対的に〈他なるもの〉、それは他者である。」」
(マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーヘブライの遺産』)