( ゚Д゚)<恋の才能(承前)

「それでも手紙で人に自分の情を伝えずにいられなくなった時には──まず、どんなに工夫をこらしてさりげなく書いたところで、それはしょせん、自分自身のもっとも傷つきやすいところを赤の他人に《文書》で引き渡すという愚を行うのと変りはない、としっかり覚悟を決め、その次に、恋文めいたものをもらう相手の身になって、情を伝えられる側の気持の負担も考えて、これは精神上の脅迫状を書くのにすこしばかり似たことかもしれないと考えることだ。……
 自分自身の気づかいということについて言えば、いくら自分自身のことだからといって、いくら恋のようなものに動かされているからと言って、ひとりの他人の前に自分自身を無防備にさらけ出してしまう権利は自分自身にもない、とぐらいに考えてちょうどいい。さっきの手紙は可愛げに書いてあるけれど、この点についての配慮はなかなか行き届いているようだ。書き手は《わたし》を手紙という物と差出人という人物と、この二つの第三者を巧みに分けてしまっている。それによって、自分自身がどこまでも自分自身であるというやっかいさから、表現の上でひとまず解放され、その分だけ筆の運びが楽になる。ひとりの人間がもうひとりの人間を求めている、いわば心情においていささか迫っている、という具合の悪さも和らげられる。受取人は返事の手紙の中で直接《あなた》へ呼びかけなくても、差出人と手紙のことを話せばすむ。ということで、受け入れるにせよ謝絶するにせよ、相手に自由を保証している。それでいて、訴えたいことは呆れるほど率直に訴えている。《わたし》のことをじかに語ったのはたった一ヵ所であるが、《これでやすむことにします》と自分自身をそっと(あるいは、ちゃっかり、と言うべきか)相手にあずけるようなところはなかなか効果的で、これは男にはできない。」
古井由吉「ああ、恋文」)