( ゚Д゚)<愛の才能

「ことほどさように作家は妄想の解消と愛の欲求の突発とを相互に密接に結びつけ、用意周到にも、必然的に愛の告白に突破口を探らせる。作家は妄想の本質を彼の批判者以上に知悉している。熱烈な恋愛という要因が、妄想成立への抵抗という要因とつかず離れずであることをわきまえている。そして治療を企てる娘に、ハーノルトの妄想のなかの彼女に都合のよい要因を感じ取らせる。この洞察があってはじめて、彼女は断固治療に専心することができる。彼に愛されているという確信があってはじめて、彼女はあえて自分の愛を彼に告白する気になるのである。施療は、ハーノルトが自分の内部から解き放せない抑圧された記憶を外部から彼に再現してやることにある。この施療はしかし、治療医の女性が施療しながらいろいろと感情を顧慮しなければ功を奏さないだろう。ということは妄想を翻訳すると、結局、こんなことばになるしかないということだ。分かったわね、これはみんな、あんたが私を愛してるってことなのよ。
 作家は彼のツォーエに、幼なじみの友の妄想治療にまっしぐらにおもむかせる。……
 グラディーヴァの治療法と精神療法の分析方法との似ている点はしかし、抑圧されたものを意識させること、啓発と治療を一致させることという、以上の二点にかぎられるものではない。両者の類似点は、変化全体のなかでもそれこそれが本質的なものであると分かっているもの、すなわち感情のめざめにまで及んでいる。私たちが学問(科学)においてふつう心的神経症と呼んでいるハーノルトの妄想に類似した精神障害は、いずれも欲動生活の一部の抑圧、忌憚なくいえば性欲動の抑圧を前提にしており、無意識の抑圧された病因を意識に導入しようとすると、その度にかならず当該の欲動という要素とそれを抑圧する諸力との戦いがあらためてはじまり、しばしば激しい反応を呈しながらついには抑圧する諸力と等化されてゆく結末に終わるのである。性欲動のさまざまな要素を一口に「愛」と要約するなら、回復過程で愛の再発が起こってくるのだ。この再発は避け難い。というのも再発防止のために施療している病気が、以前の抑圧への戦い、あるいは愛の再発への戦いの沈殿物にほかならないからである。この沈殿物を解消したり、きれいに排除したりするには、以前と同じ情熱が新たに昂揚してこなければならない。精神分析治療はいかなるものにまれ、病気の症状にわずかな妥協な突破口をみつけた、抑圧された愛を解放してやる試みなのである。さよう、『グラディーヴァ』において作家が記述している治療過程との一致点は、分析的精神療法でも、愛なり憎悪なり、ふたたびめざめた情熱がその度に医者個人の人格を対象に選ぶ、ということをつけ加えるなら完璧なものになる。
 グラディーヴァの場合を医者の技術が及びもつかない理想例に仕立てている相違点は、むろん一つや二つではない。グラディーヴァは無意識から意識に押し入ってくる愛に応えることができる。しかし医者にはそれができない。グラディーヴァは彼女自身が以前の抑圧された愛の対象であって、彼女の人格は解放された愛の努力にただちに欲求に見合うだけの目的を提供してやれる。対するに医者は、本来が赤の他人であった。治療が終わればまた他人行儀にふるまわなければならない。……」
フロイト「『グラディーヴァ』における妄想と夢」)