( ゚Д゚)<決意としての忘却

「かくしてわれわれは二つの点を確認するに至った。つまり、ハイデガーは彼が自分で言うより以上に聖書の宇宙に近接しており、レヴィナスは自分でそう思っているより以上にハイデガーと近接しているのである。では、レヴィナスハイデガーのテクストを「読み損なった」のだろうか。レヴィナスは、自分の思想ならびにそれを培っている土壌とハイデガーとの近接を「看過」したのだろうか。たぶん、レヴィナスが『存在と時間』ほどにはハイデガーの晩年の論考に親しんでいなかったというのは本当だろう。けれども、そう言っただけでは決して十分ではない。私が思うに、他の誰よりもレヴィナスは、ユダヤ的伝統のなかに潜むものとして彼によって展開されたような〈他なるもの〉についての思考にハイデガーを近づけるものすべてを熟知していた。ところが彼はまた、広範でかつ決定的な省略をおこないつつ、たとえこの近接がいかに大きなものであれ、両者を隔てる隔たり、それも根底的な隔たりを考慮するなら、この近接はなにものでもなく、完全に無視してよいものであるという点も知っていた。根底的な隔たり、というのは、他者性のいかなる構造がハイデガーの仕事を貫いているとしても(たとえば贈与、迎接、受動性、記憶、感謝、約束、救済等々)、まったき具体性としての〈他なるもの〉はハイデガーの仕事には実は不在であるからだ。ここにいう〈他なるもの〉とは超越としてあるような神であるが、それはまた、いやなによりもまず他者の顔にその痕跡を残している。レヴィナスがまず初めにハイデガーの仕事のなかに見分けたのはまさにこの広大な不在であって、そのことが原因でレヴィナスは、他者性の名において語りうると称する一切の権利をハイデガーには認めないところまで行ったのだ。というのも、他者性の唯一の場がハイデガーの仕事では決定的な仕方で見誤られており、のみならず抹消されているからだ。
 したがって、こう言うことができる。ハイデガー的な意味での存在を〈他なるもの〉に近づけうるようなすべてのものをレヴィナスは「忘却している」のだ、と。もっと大きく言うなら、ハイデガーの仕事のなかでヘブライ的宇宙を想起ささえるものすべてを「忘却している」のだ、と。しかしこの忘却は決意である。熟慮にもとづく決意であって、それは、「本質的な点」だけを「数える」ために頭数を増やすことを放棄しつつ、ある一つの隔たりを正確に測ろうとする決意なのだ。ところで、エルサレムからわれわれにもたらさせる遺産のなかで本質的な点──少なくともレヴィナスというこの遺産相続人の眼に本質的な点とうつったもの──、それは単なる諸構造ではまさしくなく、それらの構造のうちに受肉した〈他なるもの〉であって、それのみがこれらの構造に意味を与えるのだ。」
(マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーヘブライの遺産』)