( ゚Д゚)<サドマゾヒズムを擁護しない

「近代においてサドマゾヒズムがしだいに重要性を増しているのは、この入れ替わり〔都市と閨房の、公的なものと私的なものの、剥き出しの生と政治的実存の入れ替わり〕に根がある。というのは、サドマゾヒズムとはまさしく、相手の内に剥き出しの生を現出させるセクシュアリティの技術のことだからだ。サドマゾヒズムと主権権力の類比は、サドによって意識的に指摘されている(「勃起しているときに、専制君主になろうと思っていない男は一人もいない」)。だが、ここでホモ・サケルと主権者のあいだに見られる対称性は、マゾヒストをサディストに、犠牲者を虐待者に結びつける共犯性の内にもみられる。
 サドの今日性は、非政治的な我々の時代においてセクシュアリティが非政治的な優位を占めることを予告したというところにあるのではない。彼の現代性はその反対に、セクシュアリティや生理的な生自体のもつ絶対的に政治的な(つまり「生政治的」的な)意味を比類のないしかたで露出させたことにある。シリングの城では、生理的な生のいかなる局面をも見逃さない(消化機能でさえ、強迫的なしかたでコード化され公にされる)詳細な規則が定められているが、そこでなされている生の組織化のもつ全体主義的な性格は、今世紀の収容所同様、剥き出しの生だけを基礎とする人間の生の標準的かつ集団的な(つまり政治的な)組織化がはじめて思考されたというところにその根をもっている。」
ジョルジョ・アガンベン「近代的なものの生政治的範例としての収容所」)