( ゚Д゚)<姦通の現象学

「AやBという男は、自分の妻との生活に満足しているわけではないし、相手の女をきらっているわけではないのに、彼らは、性行為が自分の家に於けるものと較べて、満足をあたえないことを知っておどろく。生理的にいえば、Aの相手の女性は、特殊な快楽を男にあたえることができる女である。にもかかわらず、まったく空虚なうらがなしい気分にひたってしまうのはどうしたことか。
 その理由は、簡単である。姦通の終点は性行為で、その次の逢引もまた性行為で終わり、いつまでたっても、そのくりかえしにすぎないからだ。
 通常は情事が終わったあとの味気なさは、男にとって、一息ついて、明日また食事をし、勤めに出るということと結びついている。それから、どのような生活にしろまた開始するものがある。性行為はほんの一部分になり、忘れることができる。
 これに反して姦通では、唯一の終点である性行為は、そこで行止りになる上に、一回一回が、そこにいない亡霊のような夫のことを想起させるので、いやでも性行為は鮮かに、うかびあがる。男はここで、娼婦との性行為の方が、はるかに健康であることに気がついて、ふたたび愕然とするのだ。
 なぜなら、娼婦は、(とくに私娼は)その性行為でもって生活をしているから、はたが何といおうと、彼女が誇りさえすてなければ、りっぱに生きているといえるからだ。
 Bの相手の女性は職業をもっているが、大ていの姦通をする妻はそうではない。彼女はほかの男と性行為をするところの肉体を養っている金は、とにかく、主人の方から出ている。
「信じてね。私、あなたとのことがあってから、主人にはずっと拒みつづけてきてるのよ」
 と女が若い男に打ちあけたあと、それが、良心的な女であれば、たぶんこういうであろう。
「私、このごろ何とか自分の生活費だけはかせぎたいと思うの。主人に世話になっているかと思うと、とてもつらいわ」
 しかし女が夫から純粋になろうとする努力をいくらしたとしても、実は、益々性行為を純粋に性行為にしようと努力しているだけなのであって、気の毒なことに、こうして女は娼婦よりももっと性行為だけの存在にならざるを得ない。」
小島信夫『実感女性論』)