( ゚Д゚)<不可触の逆理

「バナッハ-タルスキの定理はこのようにして証明されたが、この逆理で述べていることは、私たちの想像をはるかに超えている。そこには想像を絶するものがあるといった方がよいかもしれない。
 一つの球と、その2倍の大きさの球が与えられたとき、たとえ、前節で与えた証明の粗筋を詳しく追ってみたとしても、私たちは具体的にどのような部分集合をとり出して、組み立て直すと、2倍の球ができるのか、全然わからない。選択公理を用いているから、私たちの側には、構成の手段はないのである。
 構成する手段がないということを、もう少しはっきりいえば、本当にそのような部分集合が存在しているかどうかを、私たちの認識のなかで確認する道はないといってよいのである。選択公理を認めれば、そこからの単なる論理的帰結として、そのような部分集合の存在が導かれるが、選択公理を認めない立場をとれば、この部分集合を特定することはできなくなって、存在するかどうかの議論をすることなどはじめから何の意味ももたないものになってしまう。
 バナッハ-タルスキの定理は、一度、選択公理を認めれば、無限の世界は、私たちのもつ直観の働く、いきいきとした世界から切り離されて、選択公理から導かれる論理的な演繹のみ働く一つの形式の世界となり、最終的には、私たちの時空認識の中では捉え難いようなことを、この形式の中で示してみせたということになっている。……
 たとえば、ある命題が、10次元以上の空間でだけ定式化されるようなものであり、この命題の証明に、陰に非構成的なものが用いられ、最終的に、命題は、私たちの、3次元でのふつうの直覚でみれば、まことに奇妙な形をとって述べられているとする。そのとき、私たちはこの‘奇妙さ’が非構成的な方法を用いたことによるものなのか、10次元以上という直観の達しない世界から生じたものなのか、直ちに見分けることができるだろうか。
 私の一つの安堵は、バナッハ-タルスキの定理が、3次元という中で述べられていたことによっている。3次元は私たちの経験世界の中だから、私はこの定理に、逆理という紛れもない感じを抱くことができた。もしこれが10次元以上の空間でしか述べられないようになっていたら、最初にそれに出会ったときの、私の当惑はどのようなものであったろうか。想像の中でさえ、このような思考に耽ることは、私を奇妙な気分へと陥れるようである。」
志賀浩二『無限からの光芒』)