( ゚Д゚)<描写の無-力・2

「しかし、感情がそこで展開するところの持続、それは諸瞬間が相互に浸透し合っているような持続であって、それゆえ、感情は生きている。にもかかわらずわれわれは、これらの瞬間を互いに分離し、時間を空間のうちで展開することで、この感情からその生気と色合いを奪ったのである。かくしてわれわれは自分自身の影を前にすることになる。われわれはみずからの感情を分析したと思い込んでいるが、実際にはこの感情に換えて、不活発な諸状態──これらの状態は語に翻訳することが可能で、その各々が、一定の事例において社会全体によって感じられる諸印象の共通要素、それゆえ非人格的な残滓を構成している──の併置を持ち出しているのだ。われわれがこれらの要素について推論を行ったり、それらにわれわれの単純な論理を適用したりするのもそのためである。諸要素を互いに孤立化させるというただそれだけのことで、われわれはそれらを類へと祭り上げ、それらが将来の演繹に役立つよう準備したのである。今仮に大胆な小説家が、われわれの慣例的な自我を巧妙に織り込んだ生地を引き裂いて、この見かけ上の論理のもとに根底的な不条理を示し、これらの単純状態の併置のもとに数々の多様な諸印象──これらは名付けられる瞬間にはすでに存在することをやめているのだが──の限りない浸透を示してくれるならば、われわれ自身以上にわれわれのことを知っていたということで、われわれはこの小説家を賞讃する。しかしながら、事情はまったくそうではない。われわれの感情を等質的時間のうちで展開し、その諸要素を語によって表現するというまさにそのことからして、この小説家がわれわれに呈示するのもやはり感情の影でしかない。ただし彼は、影を投げかけた対象の異常でかつ非論理的な本性にわれわれが勘づくような仕方でこの影を扱った。表現された諸要素の本質そのものを構成しているあの矛盾、あの相互浸透の何がしかを外的表現のうちに置き入れることで、彼はわれわれを反省へと誘ったのである。この小説家に励まされて、われわれは、自分の意識と自分自身のあいだにみずから介在させていたヴェールを、しばしのあいだ取り除いた。彼のお陰で、われわれはわれわれ自身の眼前に置き直されたのである。」
ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』)