( ゚Д゚)<Lubricate us with mucus.

「ロレンスはこの『黙示録論』の末尾を一種の〈宣言〉──他のところで彼はこれを「訓戒」と呼んでいる──をもって締めくくっている。(1)愛することをやめること。愛を問う「裁き」に対して《愛がけっしてうちかちえないような一つの決断》を対置すること。もはや与えることも受け取ることもなしえなくなる地点、もはや何一つ「供する」もののない地点に到達すること。これはアーロンや〈死んだ男〉の達した境地だ。彼らにとって問題はすでに別のところに移っているからである。流れがそのあいだを流れ、互いに離接し連結し合いながら流れてゆけるような河岸をいかにして築くかという問題に。もはや愛さず、身を与えず、受け取りもしないこと。そうやっておのれ自身の個の部分〔個の心〕を救うことだ。なにも愛は心の個の部分、個の心ではない。愛とはむしろ、この個の心を〈自我〉に仕立てあげるものである。与えられるべき、また得られるべき何かとなり、愛すること、また愛されることを欲するのは、まさにこの自我なのである。自我とは一つの寓意であり、イメージであり、〈主体〉であって、真の関係ではない。自我は関係ではない。それは一つの反映であり、主体をつくるあの小さな閃き、あの眼に浮かぶ勝ち誇った閃きにほかならないのだ(《あのいやらしい小さな秘密》と、ときにロレンスは言っていた)。大陽を熱愛したロレンスだが、それでも彼は草葉の上にきらめく大陽の閃きだけでは関係はつくれないと語っている。彼はそこから絵画や音楽に対する一つの見解をひきだしたのだった。個をなしているのは関係であり、魂であって、自我ではないのだ。魂は、生きた「共感」の輪、「反感」の輪をくりひろげるのに対して、自我にはどこか世界に没入してそれと一体になってしまおうとする傾きがあり、そこにはすでに死のにおいが漂っている。おのれを一つの自我として考えることをやめ、おのれを一つの流れとして生きること。おのれの外をまた内を流れる他のさまざまな流れと関わりあいながら流れている一つの流れとして、流れの集まりとして生きること。希少性さえ、涸渇さえ一つの流れなのであり、死でさえも一つの流れとなりうる。「性的」といい「象徴的」というのも(実際〔ロレンスにとって〕これは同じことである)、まさにそうした力の結び合い、流れの結び合いとしての生以外の何ものも意味していない。自我のうちには、キリストにもその傾向が認められ、仏教にその終着点が見出されるようなある願望、「おのれを無に帰して」しまおうとする傾きが含まれている。ロレンス(またニーチェ)が東洋に対して警戒心を抱いたのもそのためだった。流れの生としての「魂」は、生きようとする意志であり、闘い、戦闘である。離接だけではない。流れの連結もまた、闘い、戦闘であり、抱き締めることなのである。不協和なしに、和することはありえない。これは戦争とはまったく逆である。戦争はいっさいを無に帰そうとするところがあり、そのためには自我がこれにあずかることを必要とする。闘いは戦争を拒絶する。闘いとは魂の獲得にほかならないからだ。魂は、戦争を欲する者たちをしりぞける。戦争を欲する者たちは、戦争を闘いと混同するからである。しかしまた同時に魂は、闘いを放棄する者たちをもしりぞける。闘いを放棄する者たちは、闘いを戦争と混同するからである。聖戦と唱えるキリスト教と平和主義者のキリストと。魂の譲渡不可能な部分は、人が自我であることをやめたとき、初めてそこに姿を現す。このすぐれて流動的な、うち震える部分をこそ獲得しなければならないのだ──」
ジル・ドゥルーズニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」)