( ゚Д゚)<妻のなかの獣

「《なにを考えているの》とまた視線が飛んできそうな気がして、繁夫は思わず横目を使った。佐保子はうつむいたままだった。さっきから何度も、子供を抱き取ってやろうと言っているのに、強情によこそうとしない。要するに端境期の鬱屈だと彼はまた考えた。子供の誕生日が過ぎて、育児にいくらか余裕ができてきたらしい。夜遅く彼が帰ってくると、それまでは子供のそばで疲れはてて眠りこけているか、まだ忙しそうに立ち働いていたのが、近頃ではきれいに片づいた居間の真中で、膝の前に何も置かずに、ぼんやり坐っていることが多くなった。《なにを考えている》というのは、最初のうちは彼の口からよく出た問いだった。なにも考えていない、と佐保子は答える。もうさっきからここにこうして坐って何かを考えようとしているのだけど、頭の中がまっしろで……などと言う。
「お乳が出なくなってね。もう出なくてもかまわないんだけど、なんとなく張りあいがなくて」と、胸のふくらみを両手でかるく押し上げてつぶやいたこともある。会社で同僚と子供の話になって、家内は誕生日に近い子供にまだ乳をふくませていると話すと、大抵の者は《ほう》と言うような顔をしたものだ。いまどきの女性には珍しいとほめる言葉の端に、なにか獣めいた能力への感嘆に似たものを、彼は感じ取った。彼自身、佐保子が乳の豊富に出る女だとは以前は夢にも思ってみなかった。外でそう言われて、家に帰って見るたびに、佐保子の体つきがまた一段と変ったように思えた。
 そのうちに、問いはもっぱら佐保子の口から出るようになった。彼も近頃、物を思う気分にふっと引きこまれることがあって、それが微妙に顔色に出るらしく、またやってるなと自分で気づくよりも早く、佐保子の問いが飛んでくる。《恋人時代》の、ある時期のやりとりに似ていることに気づいて彼は唖然とした。彼にとっても、佐保子自身にとっても、酷な問いである。変ることを許さないという響きが、なにげなさそうにたずねる声にひそんでいる。同じいら立たしげな光が、子供を産んでから急速に変っていく躯の、そこだけは頑固に変らない目の奥から射してくる。この七年間にはなかったことだ。そんなやりとりをしている余裕もなかった。
 その佐保子の躯つきが、今日の葬式に喪服を着たら、とたんに娘々して見えてきた。」
古井由吉「狐」)