( ゚Д゚)<新しい小説・2

「新しい体験を描き出すこと、これが現代作家の欲求であり、また、存在の理由でもある。自分の現に住む世界の中で人間的に不可能だとされているものを、なおかつ人間的な体験として描いてみること、また、ただ異常な出来事として精神の外におかれているものを内面的なもので満たしてみること、そのような試みへの衝動に責められていない作家は、現代作家として評価されるべきでない。真に現代作家らしいものをあたえるのは、熱狂的にせよ、ひややかにせよ、体験の拡大への突破口をうかがう、あのほとんどエロティックな緊張である。」
古井由吉「『結びつき』における新しい体験」)

( ゚Д゚)<Lubricate us with mucus.

「ロレンスはこの『黙示録論』の末尾を一種の〈宣言〉──他のところで彼はこれを「訓戒」と呼んでいる──をもって締めくくっている。(1)愛することをやめること。愛を問う「裁き」に対して《愛がけっしてうちかちえないような一つの決断》を対置すること。もはや与えることも受け取ることもなしえなくなる地点、もはや何一つ「供する」もののない地点に到達すること。これはアーロンや〈死んだ男〉の達した境地だ。彼らにとって問題はすでに別のところに移っているからである。流れがそのあいだを流れ、互いに離接し連結し合いながら流れてゆけるような河岸をいかにして築くかという問題に。もはや愛さず、身を与えず、受け取りもしないこと。そうやっておのれ自身の個の部分〔個の心〕を救うことだ。なにも愛は心の個の部分、個の心ではない。愛とはむしろ、この個の心を〈自我〉に仕立てあげるものである。与えられるべき、また得られるべき何かとなり、愛すること、また愛されることを欲するのは、まさにこの自我なのである。自我とは一つの寓意であり、イメージであり、〈主体〉であって、真の関係ではない。自我は関係ではない。それは一つの反映であり、主体をつくるあの小さな閃き、あの眼に浮かぶ勝ち誇った閃きにほかならないのだ(《あのいやらしい小さな秘密》と、ときにロレンスは言っていた)。大陽を熱愛したロレンスだが、それでも彼は草葉の上にきらめく大陽の閃きだけでは関係はつくれないと語っている。彼はそこから絵画や音楽に対する一つの見解をひきだしたのだった。個をなしているのは関係であり、魂であって、自我ではないのだ。魂は、生きた「共感」の輪、「反感」の輪をくりひろげるのに対して、自我にはどこか世界に没入してそれと一体になってしまおうとする傾きがあり、そこにはすでに死のにおいが漂っている。おのれを一つの自我として考えることをやめ、おのれを一つの流れとして生きること。おのれの外をまた内を流れる他のさまざまな流れと関わりあいながら流れている一つの流れとして、流れの集まりとして生きること。希少性さえ、涸渇さえ一つの流れなのであり、死でさえも一つの流れとなりうる。「性的」といい「象徴的」というのも(実際〔ロレンスにとって〕これは同じことである)、まさにそうした力の結び合い、流れの結び合いとしての生以外の何ものも意味していない。自我のうちには、キリストにもその傾向が認められ、仏教にその終着点が見出されるようなある願望、「おのれを無に帰して」しまおうとする傾きが含まれている。ロレンス(またニーチェ)が東洋に対して警戒心を抱いたのもそのためだった。流れの生としての「魂」は、生きようとする意志であり、闘い、戦闘である。離接だけではない。流れの連結もまた、闘い、戦闘であり、抱き締めることなのである。不協和なしに、和することはありえない。これは戦争とはまったく逆である。戦争はいっさいを無に帰そうとするところがあり、そのためには自我がこれにあずかることを必要とする。闘いは戦争を拒絶する。闘いとは魂の獲得にほかならないからだ。魂は、戦争を欲する者たちをしりぞける。戦争を欲する者たちは、戦争を闘いと混同するからである。しかしまた同時に魂は、闘いを放棄する者たちをもしりぞける。闘いを放棄する者たちは、闘いを戦争と混同するからである。聖戦と唱えるキリスト教と平和主義者のキリストと。魂の譲渡不可能な部分は、人が自我であることをやめたとき、初めてそこに姿を現す。このすぐれて流動的な、うち震える部分をこそ獲得しなければならないのだ──」
ジル・ドゥルーズニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」)

( ゚Д゚)<えすえふ・2

「未来の「人間性」。──遥かの時代を望む眼をもって、現代という時代を見やるときに、私は、「歴史的感覚」と呼ばれる彼ら独特の徳性と病気以上に目ぼしいものは何一つ現代人の上に見出すことができない。それは、歴史上ある全く新しい見知らぬものの生ずる萌しである。この萌芽に、数世紀ないしそれ以上の歳月を藉すならば、そこから遂にはある驚くべき植物が、それ相応の驚くべき香気を放って発生し、それがためにわれわれのこの古い世界は従前より一そう住み心地よくなるかもしれない。われわれ現代人は、いままさに、いとも強力な未来の感情の鎖を一環一環と編みはじめている──が、われわれは自分自身にやっていることの何であるかをほとんど知らずにいる。ほとんどわれわれには、新しい感情が問題なのではなくて一切の古い感情の清算が問題であるかのように、思われている、──歴史的感覚はまだ何か非常に貧寒なものであり、多くの人はそれに襲われると悪寒に襲われたように覚え、そのためなお一そう貧寒にされてしまう。一方、その他の人には歴史的感覚は、忍び寄る老年の徴候と思われるし、彼らにとってはわれわれの地球が、自分の現在を忘れようとて自分の若き日の物語を書きつづる憂鬱な病人のように思われる。が実のところ、それがここでいう新しい感情の一つの色調なのだ。人類の歴史を総体として自己の歴史と感じることのできる者は、何もかも怖ろしいほど普遍化することによって、一切のあの健康を想いやる病者の傷心を、青春の日の夢を追うあの老翁の悲哀を、恋人を奪われたあの恋する者の悲歎を、その理想が潰え去ったあの殉教者の憂悶を、何ひとつ決着しないままに身に傷を負い友を喪うにいたった戦闘の夕べにおけるあの英雄の心痛を、ことごとく一身に感ずるのである。──だが、あらゆる類いのこうした憂悶傷心の莫大な全量を身に負い、これを耐え忍ぶことができるということ、──しかもさらに自己の前方と背後に幾千年の地平を展望する人間として、かつ過去一切の精神的遺産のあらゆる高貴なものの継承者・責任を負う継承者として、かつ一切の古い貴族の中の最高貴の貴族にして同時にいかなる時代にもその比を見ず夢想もされなかったような新しい貴族の初子として、第二の戦闘の日の明け初めるときに曙光と自分の幸運とに挨拶をおくる英雄であるということ、──こうした一切を、人類の最古のもの・最新のもの・損失・希望・征服・勝利のすべてをば、自分の魂に受容すること、──こうした一切を最後に一個の魂に包蔵し、一個の感情の内に凝縮させること。──これこそは本当に、これまでの人間が夢にだも知らなかった幸福を生みだすに違いない、──力と愛とに充ち、涙と笑いとに溢れた神の幸福、夕べの大陽にも似て自らの汲み尽くされぬ豊かさから間断なく恵みを贈って、これを海へとふり注ぐところの幸福、しかも大陽のように、いとも貧しい漁夫すらも黄金色に映える櫂もて舟漕ぐを眺めては自らをこよなく豊かなものと感ずるところの幸福を! この神々しい感情を、そのときには、呼ぼう──人間性と!」
ニーチェ『悦ばしき知識 第四書』)

( ゚Д゚)<無麻酔手術

「数ヤードごとに、自分を励ますために、もうじきだぞ、今日じゅう歩けば開墾地につけるぞとくり返しつづけた。咽喉も眼もかわき切って焼けるようで、骨も自分のものではない、もっと年とった他人の骨みたいに脆い感じがしてきて、ふとそのことを──自分の生活を考え出すと、大伯父の死以来、一切大人なみに生きてきたことがはっきり判った。いま戻ってゆくおれは、もう子供じゃないのだ。おれ自身の拒絶の焔で試練を受け、じいさんの狂気をしっかり押えつけ、息の根をとめんばかりにして、もう飛び出してくる余地などなくしてやった。おれはあの時、教師の玄関に立って、うすのろの子供と眼を合わせた時にまざまざと見えた、血まみれの、つんとくる狂おしいイエスの影の下を遠い目標へとのろのろ歩いてゆくおれ自身の幻影も、今ではもう永久に払いすてて縁のないものとなったのだ。
 子供に実際に洗礼をほどこしたという事実も、もうほんの時折しか少年の心をかき乱さず、そのことを考えるたびに、偶然的なものと認めた。ほんの偶然の出来事だ。おれはあの子を溺れさせようとした、そいつをやってのけた、事の本質上も、水中にまきちらした二、三の言葉なんぞより、溺れさすという行為の方が大事なんだ、と彼は思った。この場合に関する限り、教師の方が正しくて、おれは間違った。教師はおれに洗礼をほどこそうとはしなかった。奴さんは言ってたな「ぼくの根性は、頭にあるんだ」おれだってそうだぞ、少年は思った。たとえあれが何かの具合で、偶然の事故ではなかったとしても、もともと大事でもないことは、どこまでも大事じゃない。おれはあの子を完全に溺れさせてやった。「否!」と口で言ったのじゃなく、やってのけたのだ。
 太陽はぎらつく珠だったのが、大きな真珠みたいに、まるで太陽と月とが輝かしい結婚をして一つに融け合いでもしたようにくっきりしてきた。少年が眼を細めると、黒い点のように見える。子供の頃、何度か太陽に向って試しに、止れ! と命令してみたことがあり、一度などほんの数秒だが見つめている間、本当に止ったのだが、こちらが背を向けると、途端に動いてしまった。今は、太陽に向って、空から消えてしまえ、または雲に隠れてしまえと、命じたい気持だった。まともに顔を向けて、眼から追っ払おうとやってみると、たちまち沈黙の彼方に、あるいは沈黙そのもののうちにひそむ一地域が、彼をとりかこみ、はるか遠方にまで伸び広がっているのに気づかざるを得なかった。」
フラナリー・オコナー『烈しく攻むる者はこれを奪う』)

( ゚Д゚)<serious environmental problems

「「空気が濃い」とはよく言ったものだ。居心地は「風」のように、目に見えず、とらえがたいものである。服地について「風合い」ということばがあるが、「風合いのよさ」があって初めて着心地のよさがある。部屋にも、家にも、公園の木立にも、その「風合い」があるだろう。しっとりと私たちを包みながら澱まずひそかに動いている何かが。
 家や庭や公園のほうも、たえず人間が出入りしなければ速やかに朽ちる。しばらくはいらないと私の書斎の空気がささくれだつ。老母が毎日見回っていた庭は死後一月もたたないうちに荒れ地じみた。タクシーの老運転手の話では、名車といわれる車も毎朝一時間動かさないと駄目になる。熱帯魚も、毎日飽きずに眺めていてやらないと色がくすんでくる。多くの事物は、その「居心地のよさ」を保つために環境としての人間を必要とし、人間を頼みにしているようだ。きっと「居心地」をよくさせる人間とそうでない人間とがいるのだろう。」
中井久夫「居心地」)

( ゚Д゚)<DEAD OR ALIVE・3

「甘く、美しい死が、我々を救いにやってくる。群れの中になだれ込み、隔離された完全性にひびを入れる。清らかなる死よ、群れから逃れ、数人の生きる者を集め、それに対抗する機会を与えよ。ああ、死よ、我々を死で清めよ。我々から悪臭を取り除き、否定的人間とのがまんできない一体化から解き放してくれ。我々のためにこの牢獄を破壊してくれ。我々は、その牢獄の中で、群れなす生ける屍の悪臭に窒息寸前となっているのだ。粉々に砕け、破壊力をもつ美しき死よ。群らがる人間どもの完全なる意志を、自己にのみおぼれている虫けらどもの意志を、粉々に打ち砕くのだ。完全に一つになった、忌まわしい人間どもの塊を打ち砕くのだ。死よ、今や、お前の力を主張するがいい。今こそ、その時なのだ。彼らは、お前をずい分長い間拒絶してきた。彼らは、気違いじみた傲慢さにひたり、あたかもそれを屈従させたかのように、死と取り引きを始めてさえいる。彼らは、自らの持つ不毛化という卑劣な目的のために、これまでずっと生を利用してきたように、死をも利用しようと考えた。素早い死は、囲まれた傲慢な自己主張の目的に仕えることになっていた。死は、彼らを人類という慈悲深く独善的な虫けらどもを、《そのままの状態》にしておくために、手を貸すことになっていた。
 人類など、この世から消してしまおう。数人の人間がいればいい。清らかな死は、我々を人類から救い出す。死は、高貴で汚れなき死は、人類の鈍い無感覚になった殻を打ち砕く。ちょうど、殻に閉じこもった甲虫の、もろい甲を打ち砕くように。人類を打ち砕き、そんなものは終わりにしよう。純粋で孤高の人間──未知なる生と死に身を任せ、充足される人間が何人か現われればいいではないか。我々の不毛な一体化などは、もうよしにしよう。ああ死よ、我々を孤高の存在にせよ。我々を、卑しい社会的集団から解放せよ。ああ死よ、最後には我々を解放せよ。私を独立した存在にせよ。私を私自身にせよ。孤高の存在で、塊と化した無数の人間とは無縁の人間を教えてくれ。星のように輝き、自らに安んじている数人の人間を捜させてくれ。もう私という存在の起源を、人類という集団に尋ねないでくれ。私という存在の起源を私の中にある衝動に従って、直接、生に、死に尋ねてくれ。」
D.H.ロレンス「死」)

( ゚Д゚)<DEAD OR ALIVE・2

「花は新鮮でみずみずしかった。彼はそれを食べてしまいたかった。彼は花を集めながら、小さな黄色い管状の花を食べた。クララは依然として、うかぬ顔でそこらをふらついていた。彼は、クララのほうに近づいて言った。
「どうして、花を摘まないんです?」
「摘むなんていやよ。咲いているままがいいのよ」
「でも、二、三本ほしいでしょう?」
「花は摘まれたくないのよ」
「そうかなあ」
「花の死骸なんか持つのいやよ」と彼女は言った。
「それはかたくななこじつけですよ」と彼は言った。「水に入れてやれば、生えているときと同じくらい長持ちします。それに、花びんにいれてやるときれいですよ──うれしがっているように見えます。あるものを死骸だというのは、それが死骸のように見えるときだけじゃないですか」
「それがほんとに死骸であってもなくってもですか?」と彼女は言い返した。
「僕には死骸とは言えません。摘んだ花は花の死骸じゃないんです」
 クララは彼を軽蔑した。
「で、もしそうだとしても──なんの権利があって、あなたは花を摘むの?」と彼女はきいた。
「花が好きで、ほしいからです──それに、たくさんあるじゃありませんか」
「それが十分な理由になると思うの?」
「ええ。そうじゃないですか。ノッティンガムのあなたの部屋に飾れば、いいにおいがしますよ」
「そして、花が死んで行くのを見て喜べっていうのね」
「ですけど──死ぬなら死ぬでかまわないじゃないですか」
 そう言って彼はクララから離れ、青白く輝く泡の塊りのように野原に一面に咲いている花の上に身をかがめながら、行ってしまった。」
D.H.ロレンス『息子と恋人』)