( ゚Д゚)<著述という病

「外なるものを生み出したということは、しかし、自分の中の何かを失ったことである。校正期において、この喪失感を補償するものは「小さな(内なる)批評家」による小さな手直しである。この手直しは、「まだ自分の自由になる」という感覚を与えて、進行する喪失過程の傷を癒してくれる。しかし、喪失過程は同時に快癒過程である。「著述する」という病いから癒えつつあることである。
 思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」として「私」であり「世界」であり、より正確には「私-世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部ではあるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。同時に、すでにある程度は確立している自己評価を敢えて疑問に付し、焦りと食欲不振と不眠と便秘とに多少とも身を委ねねばならなかった。こういうものすべてから癒えつつあることは、すべての身体病からの回復と同じく、独特の快感である。時には「精神の筋肉」が今弛緩しつつあるのが直接感じられるほどだ。」
中井久夫「執筆過程の生理学」)