( ゚Д゚)<神秘主義の条件

「私がまず説明したいと思う点は次のこと、すなわち、神秘主義は宗教史の一定段階において初めて登場するということである。それは宗教意識の一定段階と結びついており、現実の宗教史のなかでもつ意味において、神秘主義は二つの時期にはありえない。
 その第一期はというと、まだ世界そのものが神的であり、神々にみちているあいだのことである。人はいたるところで神々に逢い、神々をとらえることができ、忘我を必要とせずに神と自己を混同している。すなわち、神的なものと人間的なものとのあいだの割れ目がまだ現実の、魂をつかむ事実としてひらかれていないかぎり、神秘主義は存在しえないのである。だがそれは神話の世界、民族の青春期の世界である。すべてがすべてと結合して、まだ分離以前にあり、分離についてまだ根本的に何も知らない結合という直接的な意識、純正な一元的コスモス、は神秘主義に逆らうものである。そして同時に、この万物一体という意識の、ある傾向が神秘主義のなかに別の次元で形を変えて再び立ち戻ってくることは理解できることである。この段階では、自然が人間と神の関係の真の舞台である。
 神秘主義を知らない第二期は、宗教が発現するあの創造的な時代である。宗教が人間をあの神、人、世界一体の夢想的段階からひきずり出すのは、まさに宗教の最も偉大な行為である。最も古典的な形態における宗教は、ほかならぬあの、無限の人格にして先験的存在なる神が有限の被造物にして有限なる人格に向きあうところの、絶対的にして途方もない割れ目の深淵を引き裂きひらく。宗教史の古典的段階である天啓宗教の誕生はこのようにして神秘主義の可能性から最も遠くかけ離れている。ここで人間は二元性を、ある深淵を意識させられる。この深淵を越えて進むものは声だけである。すなわち、導きと立法を行う神の声と祈りをささげる人間の声である。偉大な一神教的宗教はこの両極性とこの永遠に越えることのできない深淵という意識のなかに生きている。これらの宗教は、宗教の舞台を大自然から人間および宗教的共同体の倫理的・宗教的行為へと移しさってしまった。いまやある意味でこれら宗教は人間と神の関係の新しい舞台としての歴史を示してくれているのである。
 ところで宗教が一定の信仰生活と共同生活において歴史のなかにその古典的表現を維持してきたばあいにこそ、神秘主義は可能となり、おそらくその宗教のロマン主義時代とよびうるもののなかに現われてくる。その宗教は大いなる深淵を見て、さらにその経験からおよそよいきっかけをつかみ、この割れ目を完全に意識しつつ割れ目を閉じてくれる道となる秘密を求める。宗教から絶たれてしまった統一を再び、神話の世界と啓示の世界が人間の魂において出会う新しい次元にうちたてようとする。したがってその舞台は本質的にはまさに魂にほかならず、その対象は魂が多様の深淵をのりこえて、今や万物の根源的な統一として現われる神的な現実の経験にいたる道である。つまり神秘主義はある程度において神話的経験の再受容なのであり、その際もちろん看過してならないことは、あらゆる二分化以前にある統一と、意識の新しい高揚のうちに再度うちたてられる統一とのあいだには、ある本質的な差異があるということである。」
(ゲルショム・ショーレムユダヤ神秘主義』)