( ゚Д゚)<人生選択の(不)自由・2

「ナスターシャ・フィリポヴナは──ドストエフスキーの『白痴』のなかで──、彼女の人生を決することになる夜、彼女の家の客間に入る。彼女は、自分を辱め、そのときまで自分を愛人としてきた男、アファーナシ・イワーノヴィチ・トーツキイに、若いガーニャと結婚すれば七万五千ルーブルを代償として与えるという彼の申し出の返事をする約束をしていた。客間には彼女の友人や知人が皆そろっている。エパンチン将軍も、得も言えず奇天烈なレーベジェフも、敵意に満ちたフェデルシチェンコも。ムイシュキン公爵も、ロゴージンも。彼は、途中で、いかがわしい一団をひき連れて部屋に入ってくる。ナスターシャのための、十万ルーブルの包みを手にもって。最初から、その夜の集いはどこか病的で熱に浮かされたようだった。そのうえ、家の女主人はただこうとしか言わない。わたしは熱があって、具合が悪い、と。
 フェデルシチェンコの提案した、全員が自らの卑しい行為を告白するという社交界の鼻持ちならないゲームに同意したナスターシャは、その夜会の命運をすべてゲームに託す。そして、トーツキイへの返事を、彼女がほとんど面識のないムイシュキン公爵に決めさせることになるのは、たわむれから、あるいは気まぐれからである。しかし、それから事態は急転直下する。突然彼女は公爵との結婚に同意するが、すぐにそれを取り消して、夢ごこちのロゴージンを選ぶ。そこで興奮した彼女は、十万ルーブルの包みをつかんで火のなかに投げ入れ、欲深いガーニャに約束する。金を火のなかから自分の手で取り出せば、その金はあなたのものだ、と。
 ナスターシャ・フィリポヴナのこの一連の行動を導いたものは何だろうか。たしかに、彼女の身振りは、度を越してはいるが、その場にいたほかの誰の打算とふるまいに比べてもはるかにまさっている(ムイシュキンを唯一の例外として)。しかしまた、その身振りのなかに、理性的な決定や道徳的原則といったものを見出すことはできない。また、復讐のための(たとえば、トーツキイにたいしての)行動とも言えない。最初から終わりまで、ナスターシャは譫妄状態にあるように見え、彼女の友人たちも執拗にそのことを指摘する(「いったいきみは何を言ってるんだ、発作が起きたのか」、「彼女が理解できない、正気を失ったんだ」)。
 ナスターシャ・フィリポヴナは自分の生を賭けたのだった。あるいはおそらく、ムイシュキン、ロゴージン、レーベジェフによって、そして、つまるところは彼女自身の気まぐれによって、それが賭けられるままにしておいたのだ。このため、彼女のふるまいは説明しがたいものとなる。このため、その生は完全に手付かずのままであり、その行動すべてにおいて理解されないままにとどまる。倫理的であるのは、単純に道徳律に従う生ではなく、その身振りにおいて取り消しがたく留保することなく自らを賭けることを受け入れる生である。たとえ、このようにして、その幸福と不幸が一度かぎり永遠に決定されてしまう危険を冒してもである。」
ジョルジョ・アガンベン「身振りとしての作者」)