( ゚Д゚)<Love will never die

「人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性を結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が愛を必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛あってのことである(ここに性の出番がないことはいうまでもあるまい)。
 私は最近、若い弟子(この言葉自体は好きではないが他の言い方がない)を非業の死によって失い、私の中に生まれる哀切感の強さに自ら驚いた。逆縁という語が自然に浮かんだ。この定義によれば、友人にも、師弟にも、患者と医師との間にも愛はありうる。おのれの死は、その人たちすべてに、すなわち愛のすべてに別れるからつらいのである。あの人間嫌いとされるスウィフトが『ガリヴァー旅行記 第三部』において、ほんとうに不死の人間が時々生まれる国を描いて、友人知人の全てから生き残る不死人間の悲惨を叙述している時、彼は同じことを言っているのだといえば驚く人があるであろうか。この場合、特定の宗教に帰依していなくても、祈りはありうる。実際、祈りを込めない処方は効かないような気がするのは私だけではなかろう。これは心構えの問題であって超心理学の問題ではない。」
中井久夫「『祈り』を込めない処方は効かない(?)」)