( ゚Д゚)<37歳で不眠症になった僕

「あたりいちめんに広がる避けようもない無名の実存のざわめきは、引き裂こうにも引き裂けない。そのことはとりわけ、眠りが私たちの求めをかすめて逃れ去るそんな時に明らかになる。もはや夜通し見張るべきものなどないときに、目醒めている理由など何もないのに夜通し眠らずにいる。すると、現前という裸の事実が圧迫する。ひとには存在の義務がある、存在する義務があるのだと。ひとはあらゆる対象やあらゆる内容から離脱してはいるが、それでも現前がある。無の背後に浮かび上がるこの現前は、一個の存在でもなければ空を切る意識の作用のなせるものでもなく、事物や意識をともどもに抱擁する〈ある〉という普遍の事実なのだ。
 諸々の対象──内的であれ外的であれ──に向けられる〈注意〉と、不可避の存在のざわめきに吸い込まれてゆく夜の〈警戒〉との違いはさらに大きい。自我は、存在の宿命によって運び去られる。もはや外も内もない。警戒には対象というものがまったくない。しかし、だからといってそれが無の体験だということにはならない。ただ、警戒にもまた夜と同じように名前がない。注意は、まなざしを方向づける自我の自由を前提としているが、私たちの眼を閉じさせない不眠の警戒には主体がない。それは、不在のとり残した空虚に現前が──何かではなくある現前が──たち戻ることであり、否定のさなかでの〈ある〉の目覚めなのだ。それは、存在するという営みを倦むことなく続ける存在の確実性であり、存在そのものの不眠なのだ。志向する主体の意識は、消失したり、眠ったり、無意識であったりする能力をもつことで、まさにこの無名の存在の不眠を断ち切るものであり、「中断する」可能性、かのコリュバスの義務を免れる可能性、そしてみずからの内に存在から引き蘢もるための避難所をもつ可能性であり、さらにはまた、ペーネロペーのように、昼の間監視の中で織りあげたものを解きほぐすため、自分だけの夜をもつことなのである。〈ある〉という存在の働きは、忘却をとおして作動するのでもなければ、眠りの中に夢がはまり込むように噛み合っているのでもない。〈ある〉という出来事はまさしく、眠りが不可能だということ──諸々の可能性に対する妨害としての不可能性──、くつろぎやまどろみや放心が不可能だということのうちに起こっているのだ。この不在のなかの現前の回帰は、潮の満ち干のようにはっきりした瞬間に起こるわけではない。暗闇にひしめく点の群れに遠近法がないように、〈ある〉にはリズムがない。瞬間が存在の中に不意に現れるためには、そして存在の永続性のごときこの不眠が止むためには、主体の定位が必要なのだろう。」
エマニュエル・レヴィナス「実詞化」)