( ゚Д゚)<俺はなぜ拍手するのだろうか

「戦争だろうと平和だろうとおかまいなく、〈文化〉という巨大な楽隊車はがたごと転がってゆく。そしてひとりひとりの芸術家の仕事も、刻々うずたかくつもってゆく廃品の山に運ばれる。劇場も俳優も批評家も大衆も、ぎしぎし軋みながら決して止まりはしない機械の中で、お互いに絡みあっている。いつでも次の新しいシーズンが目前に迫っていて、わたしたちはやたらに忙しく、唯一の重要な問い、機構そのものを問いただす問いを発するひまがないのだ──なぜいったい演劇が必要なのだ? 何のために? 演劇とは時代錯誤であり、いにしえの記念碑か風変わりな風俗みたいな、くたばりぞこないの骨董品であるのか? なぜ、そして何に、拍手するのか? 劇場は、わたしたちの生活の中で、本当にひとつの位置を占めているか? それはどんな機能を果たしうるのか? それは何に奉仕するものなのか? それは何を探り出すことができるのか? 劇場を劇場たらしめる特質は何か?
 まだ車輪というものが発明されない頃のメキシコの話だ。奴隷たちの群れは大きな岩石をかついで森の中、山の道を運ばなければならなかった、だが彼らの子供たちは小さなころのついた玩具を引っぱって遊んでいたのである。その玩具を作ってやったのは奴隷たちだったのだが、いく世紀ものあいだ、彼らは両者のつながりに気づかなかった。すぐれた俳優がまずい喜劇や二流のミュージカルに出演するのも結構、観客が凡庸な古典劇を見て、衣装が気に入ったとか、装置の転換がうまいとか、主演女優が美人だとかの理由で拍手喝采するのも結構千万である。だが、それはそれとして、彼らは自分たちが紐でひっぱっている玩具の下に何があるか、気がついたことがあるだろうか?」
ピーター・ブルック「退廃演劇」)