( ゚Д゚)<抽象のパラドクス

「志賀 普遍的な言葉に少し関係するかもしれませんが、高橋陽一郎さんにモデルということの意味を聞いたんです。モデルとはいったい何なのか。モデルというのはいろいろなものから抽象して得られたものを言うけれども、実際はモデルをつくるときに非常に多くのものを捨象しているに違いない。でも、その部分にはほとんど触れられていない。その捨象する部分についてはどう考えるかと聞いたんです。そうしたら高橋さんが、捨象すると言っても、何を捨てたかはわからないわけだから、わからない。それは逆説的だと。
斎藤 それはそうですね。見えているものしか存在しないという感じはある。
志賀 その話は何に関係して出てきたかと言うと、少し前に、最近の確率論はウィーナー測度の上で展開し、連続関数の空間のなかに測度を入れたけれども、あの測度はほとんどのものを捨てているはずだと言ったんです。その捨てているものの大きさというか、逆にウィーナー測度から取り出せるものはごくわずかにすぎないわけです。そういう議論がどれだけでているかと聞き、それからモデルの話に入ったわけです。
斎藤 高橋さんがちょっと言った印象にぼくは同感です。結局われわれは認識に残った部分だけを理解しているのであって、われわれの認識は宇宙のなかのほんのわずかである。確かにそれはそのとおりです。けれども、われわれは捨象して理解した部分を数学としているので、どこが捨象されたかについては、さらに経験を積み、将来もう一歩突っ込んだ議論にするよりしょうがないわけです。歯切れの悪い言い方だけれども、見えている部分のみが存在するという言い方は、やっぱりあり得るんじゃないですか。」
(斎藤恭司+志賀浩二『数学のおもしろさ』)