( ゚Д゚)<老歳痴話

「融〔トオル〕は自分が出たあとで、愛子が多分出るであろうと思ったが、しかし又出て行かないかも知れないと云う気もしていた。彼は愛子との関係について、時々苦悩の遣場にしていた友人のTさんのところへと、自然に足が向いて行った。「多分もう帰らないだろうと思うね。」融は憂鬱な表情に、強いて落着を見せながら、否定的な口吻を洩した。
「そう、それなら其でもいいじゃないか。」
 Tさんはちょうど銀座へ買いものに出かけるところだったので、融も散歩がてら自動車に同乗することにしたが、実は呑気な顔をして人の買いものなどに附合っているような余裕はなかった。それにああは言っても、出先をほぼ女中に示して出て来た心持がわかってくれるなら、事によると家にいるかも知れないと、融は心に望みを繋いでいた。
「事によると愛子は家にいるかも知れないんだ。」融は自動車に乗ろうとして、ちょっと躊躇した。
「そうね。」Tさんは孰でもいいと云う風ににこにこしていた。
「気にかかるから、ちょっと見てこようかと思う。もし居たら連れて行ってもいいかね。」
 融はTさんも、個人としての愛子に好感をもっていることを知っていた。最初融が彼女を紹介したときから、Tさんに与えた愛子の印象は悪くなかった。で、融は大抵のことはTさんに打明けていた。Tさんの夫人がちょうど病気であったので、そんな買いものに愛子を引張って行くのも、そう不自然ではないと思われた。
 しかし融が急いで家へ引返してみると、愛子の履物が玄関にはみえなかった。彼は目先が暗くなった。
「やっぱり行ってしまったんだ。」融はそう思いながら、女中を呼び出して聴いた。
「先刻お出になりました。」
 融は力がぬけたが、仕方なし通の方に待っている、Tさんの自動車まで急いで行った。
 融は、愈Tさんに附合っている空もないほど、気落ちがした。
「到頭行ってしまった。」融は空洞な笑い方をした。
「そう。やっぱり若いから気が動くんだろう。それならそれで君も落着いた方がいいじゃないか。」
 しかし此の場合、融はそう言っていられなかった。不幸であるにつけ、幸福であるにつけ、彼の気分はこの頃いつまでも緊張しきっていた。緊張するというよりも、寧ろ今までの生活の全部を洗いおとしたような、別の人間に抜けかわろうとしていた。一切の生活興味の中枢が、愛子におかれていることを感じた。妻の突然の死によって拉がれた彼の生活は、それが幾分彼を家庭の窒息から免れしめる機縁となりうるにしろ、それだけに又、たとい一時であるにしても、翼の片方が折れてしまったか、片足がもげてしまったような生活上の支障を感じた。それよりも先ず第一に人の世の果敢なさと、幸福の目の先に横わっている暗い陥穽の恐ろしさに戦いた。そして今彼はへたばろうとした地びたから、いきなり天上界への綱渡りのような危い芸当へと引張りあげられていた。底の知れない、暗いとも明るいとも、恐ろしいとも、楽しいともつかない、地獄の口をのぞいて来たような、絶望と安易との孰ともつかない、黄昏の寂しい空に懸っているような彼の心は、辛くも愛子によって、萎みがちな生命の衰えを支えていた。けれど、不自然な其の愛の生活の底に流れている哀感が又二重に彼を悩ませていた。彼はそれを見まいとしていた。彼女の愛の前には、それが消されていた。
 融たちの乗っている自動車は、いつか下町の繁華の真中へ乗り出していた。彼の目にふれる一切のものが空虚で無価値であった。その辺をうようよ歩いている人間の顔という顔が、石塊か木片のように馬鹿げて見えた。
 融たちはやがて自動車をおりて、どこも此処もつるつるした雑貨店の人込へ吸いこまれて行った。Tさんは先ず人形の並んでいるところへと急いだ。それがちょうど五月幟の飾られようとしている五月に近い頃だったので。
「人の顔がみんな瓢箪のように間ぬけてみえる。肥っていれば、此の人は何だってこんなに肥っているんだろうと思うし、背の高い、のっぺりした人を見れば、この人は何だってこんなにひょろひょろしているんだろうと思うわ。」
 愛子がそう言っているとおりに、融の今の目にも総ての女が遽に姿を消してしまっていた。美しければ美しいで物足りなかったし、醜ければ醜いで亦詰まらなくて仕方がなかった。
 Tさんはしかし融のそんな気持とは風馬牛であった。彼は何も目に入らなかったが、入らない理由が融とちがっていた。Tさんには平和の家庭や、親のそろった子供たちがあった。融は愛子を抜きにした自分の家庭を振返ると、そこには唯母をもたない哀れな子供たちの、散漫な集合があるだけであった。
 Tさんは片端から買いものに取りかかった。田舎へ送る五月人形、初夏の子供エプロン、それから幾足かの靴足袋、キャンデーやデゼールのような菓子、そしてそう言った日用品がほぼ揃ったところで、更に家具を見たり、絵画や美術品を見てまわったりした。二人は室から室、階段から階段へと、目まぐるしい人の間を縫って、ぐるぐる廻っているうちに、買いものの嵩ばった包の幾つかが、持切れないほどTさんの両手に垂下ってしまった。Tさんは蹌踉していた。
 融にはその時間が悩ましくてならなかった。何を見ても興味がなかった。妻と時々一緒に買いものに来たときのような、それでもいくらかそんなものに興味をもった彼の気分は、妻を失ってからの彼には、どこにも見出せなかった。
 Tさんの買いものを満載した自動車に同乗して、家へ帰って来たのは、懶い初夏の長い日も彼此夕気づく頃であった。
 急いで門をあけて入ると、古びた格子戸をすかして、桃色の爪革のかかった黒塗りの日和下駄が、ちゃんとそこに爪先をそろえて愛らしく並んでいるのが目についた。
 融はやっと吻とした。
 で、格子戸を開けて、上框へ上ると、茶の室の方から、黒い目をおどおどさせながら、愛子がひょいと顔を出した。そして融が出した帽子を黙って受取った。
 融の頭脳はすっかり明るくなってしまった。くしゃくしゃになった心が、暢びやかに慰されて行った。
「お帰りなさいまし。」彼女は机の前にすわっている融に、遠いところから更まってお辞儀をした。
「どこへ行っていたの。僕はTさんの買いもののお供をして行ったけれど、少しも面白くなかった。」
「私は子供のことで、此のあいだ手紙をよこしてくれた松木のお友達があったでしょう。丸の内の事務所にいるの。その人に遇って来ましたわ。」
「そう。銀座辺を歩きはしない。あの辺へ行けば、ちょっと行って見たくなるじゃないか。」
「銀座へは行きませんでしたけれど、土橋で写真を写して来ましたわ。」
「呑気だな。僕はそれ処じゃなかった。」
「私も一人で詰まらなかったわ。」
 愛子はそう言いながら、彼の側へ寄って来た。そしてしんなりした腕を彼の膝に差しのべた。「何うして帰って来たんだって言われるかと私思ったわ。でも貴方が帽子をお出しになったんで……。」愛子はそう言って、目に一杯の笑をたたえながら、少し顔を紅らめた。
「何んなことがあっても、私を見捨てないでね。」
「僕をおいて行っちゃいけない。僕は何処かへ行ってしまったと思った。何だって出て行ったんだ。」
「即刻自決しろなんて、あんなこと言われて、ずうずうしく私がいられるもんですか。おい、君、自決したまえ! 先生ってば随分思い切ったことを言う方ね。でも迚も好いわ。」
「君のまたあの攻め方の鋭さと言ったら、僕は迚も敵わない。」
 夜が迫って来た。」
徳田秋聲「元の枝へ」)