( ゚Д゚)<フロベールの誕生

「いずれにせよ『〔聖アントワーヌの〕誘惑』の初稿に対して彼〔マクシム・デュ・カン〕とブイエがきわめて厳しい判断を下したという証言そのものは、信じてさしつかえない。批評家は一度折紙つきになったものは褒めるにかぎるというご都合主義から、例の四日間でデュ・カンとブイエが天才の作品を見抜くことができなかったとは、盲も同然だと非難する。たいていの人は、夾雑物をとり除きみがき上げた一八七四年の版、文句のつけようがないこの傑作を通して、『誘惑』の初稿を判断しているのである。一八四九年の版に関するかぎり、わたしの意見は、二人の友人の意見とさして変らない。あれはたしかに、形式も固まらずむらがあって、うんざりするほど冗漫な本であり、雄弁や反復、やたらに多い暗喩などのために、たまたま文体の発見があってもそれが圧しつぶされている。ある種の安易さに著者は甘えているし、抒情性はとりとめがなく饒舌だ、本の構成について言えば、無頓着で不均衡で思いつきめいたところが多い。しかもこうした欠点こそ、『ボヴァリー夫人』以降のフロベールがペストのように忌み嫌ったものにほかならない。いわゆる「フロベール的」文学の特性──適切な言葉、没我性、客観性、厳密な構想、理性による直観の制御──を称賛する人たちが、つぎのように考えてみないとは、むしろ驚くべきことではないか。もしブイエとデュ・カンがひどい幻滅をギュスターヴに味わわせなかったら、あの昂揚した弁舌さわやかな抒情性と、彼の本性にひそむインスピレーションへの盲目的信仰とによって特徴づけられる文学に、彼はたぶん固執したかもしれないのだ、そしてわたしたちがもっとも愛する一連の書物はついに書かれることがなかったかもしれない。」
マリオ・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴』)