( ゚Д゚)<TALK OR DIE

「フランス人の言うには「食欲は食べているうちにわいてくる」のだそうだが、この経験命題をパロディー化して「考えは話をしているうちにわいてくる」と言っても、真実であることに変わりはない。
 ときおり私は仕事机にすわって書類に目を通すことがある。こみいった訴訟事件にうまい判断を下してくれそうな視点を探しもとめる。……さて、そこでだ。そういう場合、私のうしろで家事をしている妹と当の問題について話をしてみると、私ひとりでならおそらく何時間温めてもモノにできなかったと思われる考えに遭遇するのだ。語本来の意味で妹が教えてくれるというわけではない。ちなみに妹は諸法則を知りもしなければ、オイラーケストナーを勉強したこともないからである。そうかといってまた、こちらはかなりありそうな話だけれども、妹がたくみに質問誘導して問題の肝腎かなめの点に私を連れだしてくれたというのでもない。そうではなくて、自分のもとめているものとあらかじめ若干の関係のあるなにやら模糊とした観念を私はもっており、であるからして、これを携えて臆面もなく一歩を踏みだしさえすれば、はじまったからには結末もあるはずという必然性に導かれて、話のすすむうちに、おどろくべし、複雑な文肢のある構文に認識が終止符を打ちでもしたように、情念がその錯綜した観念に完全に明白な刻印を与えてくれるのである。私は不明瞭な音声をまじえたり、接続詞をながながとひっぱったり、その必要のないところでも同格をつかったりする。また理性の工場で自分の考えを製造するのに適当な時間を稼ぐため、その他諸々の話を長びかせる手管を起用したりもする。そんなときなにが助かるといって、こちらの話を中断しようとする妹の身ぶりほどためになるものはない。そうでなくてさえ張り詰めている私の情念は、みずからの没頭し切っている話からもぎはなそうとするこの外からの試みによっていやましに昂ぶり、戦況切迫のときの名将軍もさながら、力量において一段と緊張が高まってくる。……
 この種の話し方こそが真の声高らかな思考である。表象の列と表象の記号の列とがならび合って同時進行してゆき、その両者にともに情念が呼応する。言語はこのとき精神の雁木車についた歯止めのような軛ではなくて、精神の車と平行してはしる同じ車軸についた第二の車に似る。精神が一切の話に先立ってすでに出来上がっているのとはまるでちがう。というのも後者であれば精神はたんにおのれを表白するだけにとどまるからであり、その作業には、精神を刺激するどころか、精神を刺激から解除するはたらきしかないからだ。」
(ハインリヒ・フォン・クライスト「話をしながらだんだんに考えを仕上げてゆくこと」)