( ゚Д゚)<描写の無-力

「われわれの日常世界は、言語に対して開かれた世界である。
 むろん、言語を絶したものは至る処に顔を出している。冬の日を寂かに浴びている路傍の石をみて私の中に起る感興をことごとく表現するにはプルーストの絶望的努力を以てしても足らないであろう。しかし、流動と変換に充ちたわれわれの日常意識は、通常、一隅の石に長くは留まらない。傍らに友人がいれば、感動を伝えるにしても、微笑して指さすにとどめるであろう。むしろ、日常性の意識は、石を一つの障害としてとらえ、友人につまずかぬよう警告のことばを発することにおわるだろう。いく年も経たある冬の夜、石の追憶は不意にことばを選び取り、一篇の詩に結晶するかも知れない。しかし、石を目撃したその時点で絶体絶命的に表現を迫られることはない。一種の余裕の意識がわれわれの側にある。
 絶対的見地──例えば論理性──からみれば言語は不完全きわまりない代物である。しかし、他方、言語はくまなくわれわれの世界をいわば陰伏的かつ“構造的に”涵している。われわれは表現可能性を空気のごとく呼吸している。言語は今日なお起源も正体もつかめぬ奇妙なものであるが、人類が長年かかって周到に培養しただけのことはあり、ほとんどつねに事態を、事態の要求する以上の厳密さを必要とせずに表現することができる。言語飢餓は例外的事態である。」
中井久夫精神分裂病者の言語と絵画」)