( ゚Д゚)<描写の現象学

「【大小はただ外部から見て言えることであって、内部にはいれば大小はない。なぜなら、境界は外部に属し、外部から見た内部の大小は、この境界によって判断される。しかし、内部には境界が属しないから、いわば無限であり、無限には大小がない。】
「よくきみはそんなことが言っていられるね。光学工場でもそんなことを言っていた。ダムを造るときもそんなことを言っていた。いまもまだそんなことを言っている」
 だって、きみも作品を創造するのは境界がそれに属しない、大小のない無限の内部を実現しようとしているんじゃないのかね。そうであればこそ、光学工場も書いて、内部といわれる世界になる。ダムの現場も書いて、内部といわれる世界になる。小さな印刷屋も書いて、内部といわれる世界になろうというものじゃないか。外部から見て大小を言う読者を内部といわれる世界に引き入れて、大小を言わせぬようにしなければならない。これを魅了するというのだ。
「その魅了するというのがまた難しい」
 そりゃァ、そうだ。きみがただ、ぼくがこのコップをとってコーヒーを飲んだと書くなら、それでいいのだし、なんのことはない。それはきみにとっての関係はただこのぼくだけであり、コップはたんなる対応をなすもので、きみとなんらの関係をなすものではない。しかし、ひとたびきみがコップそのものを書こうとするなら、話はまったく違って来る。
「そうだな。卒然として見ればなんでもないものも、これを書こうとして立ち向かえば全然違った相貌を呈して来る」
 そうだろう。そうなればこの私と私以外といえば全世界であるように、このコップとコップ以外といえば全世界になるんだ。書こうとすると書かせまいとするコップのために、幻術が必要になって来るのさ。
「幻術?」
 うん。ぼくはいつか映画で、白熊とセイウチの格闘を見たんだがね。白熊は後ろ脚で立ち上がる。セイウチも立ち上がろうとする。セイウチはもともと怯懦な動物だが、なにしろからだは巨大で、ながい牙をもっている。白熊は両手を上げてジッと構えながら、突然徐々に顔をそむけてあらぬ方を見る。その瞬間、セイウチは襲いかかるのだが、白熊はわざと隙を見せてセイウチの襲いかかるのを待っていたのだ。そのとき、間髪を入れずあげていた片手で撲りつけて、セイウチを倒してしまう。
「じゃア、コップひとつ書くにも、隙ならぬ隙をみせて討ちとらねばならぬというんだな。なぜそんなことになるんだろう」
 ぼくはこう思う。対決しようとすると、対象は必ず私と対等な生きものとして、関係して来る。
【関係とはたんなる対応ではない。おのおのそれみずからが矛盾を孕む実存として対応するとき、はじめて関係となる。】」
(森敦「アルカディヤ」)