( ゚Д゚)<没-私-小説

「一体に私は自分のことは書きづらい。自分のことを書こうとする自分に、先ず疑惑と厭悪とを感じる。それが作中人物の私をいやな人間に書かせる。つまり、自分のことを書こうとする自分のいやさを、作中人物の自分をいやな人間にすることによって、まぎらわすのであろうか。作家としての難渋に、せめてそれで糸口を見つけるのであろうか。そうでもせぬと、いつまでも踏み出しがつかない。言わば、癇癪の余りのやけくそであり、惑乱の余りのあきらめである。そういう風にして書いた作品も、時々あった。そういう作品のなかの人物を、実在の私と誤解されることも、時々あったのは無論である。強いて自分とは逆に書いた場合でも、弁疏すべき筋はない。しかし、茫漠としたさびしさは感じる。誤解されたためではない。ものを書くということのはかなさに通うようなさびしさである。
 誤解に対する弁疏の点では、考えてみると、最初から万全である。自分の経験を潤色しながら、自分を書いたのではない、自分はこんな人間ではないというのである。それが偽悪を装っているから、尚狡猾である。しかし、あらゆる自己告白は偽善か偽悪かに傾き、自己宣伝と自己弁護とを免れぬものであって、これをつきつめてゆくところに、告白を偉大にする源の一つもあるわけだが、私はまだそれを本気に志したことはない。偽悪も弁疏も意識してというほどではないので、極めて薄弱である。つまりは、自己を究明しようとしたことも、自己を告白しようとしたこともないのである。自己を書いたためしはないのである。自分を人に押しつけがましい、あわよくば後世にまで自分を押しつけようとする、文学者でありながら、私は自分が忘却の世界に消え去るという空想に、恍惚とする。」
川端康成「故園」)