( ゚Д゚)<小説可能性感覚

「時と場所、季節の色合い、筋肉と心の動き、こういったものは、天才的作家にとって(われわれが推測できるかぎり、そしてわたしはその推測を正しいものと信じているが)、世間一般の真実を伝える巡回図書館などから借りてこられるような慣習的な観念ではなく、芸術の巨匠のみがみずからの独自な方法で表現することを学びとった独自の驚異なのである。陳腐なことを飾りたてるのは、二流の作家に任せる。彼らには世界をふたたび作り上げることなど念頭にない。ただ既定の事物の世界から、慣習的な小説様式から、可能なかぎりの甘い汁を絞り出そうとするだけのことだ。二流の作家がこのような決められた限界内で生み出しうるさまざまな組み合わせは、かげろうのようにはかないが、それなりになかなか面白い。なぜなら二流の読者というものは、自分と同じ考えが心地よい衣裳をまとって変装しているのを見て、快く思うものだからである。しかし、本当の作家、惑星をきりきり舞いさせ、眠っている人間を造型しては、その眠っている男の肋骨を熱心にいじくりまわすような人、そういう種類の作家には、自分の自由になるような既製の価値はなに一つないのだ。彼は自分ひとりで価値を創造しなければならない。書く芸術は、まずもって世界を小説の可能性として見る技を意味するのでなければ、まったく空しい徒事である。この世界の素材は(現実であるというかぎりにおいて)、たしかに現実にちがいないが、それかといって、一つの是認された完全無欠の全体として存在しているわけではまったくない。それは混沌なのだ。この混沌に向って、「さあ、行け!」と作家はいう、そして世界がゆらめき融合するにまかせる。かくして、世界はその目に見える表層の部分においてのみでなく、その核心の原子において、再統合される。作家は現実を探検し、そこに含まれる自然のものに名を与える最初の人なのである。」
ウラジーミル・ナボコフ「良き読者と良き作家」)