( ゚Д゚)<Serene Iscariot

「ここでつけくわえるべきことがひとつある。それは、主体的な時間を把握する「現在」の構造が、ディアレクティックな、自己否定的なものだということであって、このことは行動するもののがわからいえば、作家が自分を留保し、自分の趣味にかまけていれば、決して主体的な持続をつくりだせないということを暗示している。なぜなら、この「現在」は彼の存在と不可分であり、「現在」の自己否定的な構造は、そのまま行為者の存在の自己否定的な構造をも意味するから。逆にいえば、作家が自己をなんらかの意味で肯定的にとらえ、正当化しようとするかぎり、彼はあの「わな」──「ありじごく」のすりばちからぬけでることはない。自己をそのように実体化したとき、作家は時間を遮断し、現実を切断してしまう。むしろ彼は自らを、たえず自己否定をくり返していく運動としてとらえるべきである。その運動によって、はじめて彼は他者にふれ、自己の存在にふれる。その前に、なんの「文士気質」のごときものがありうるか?」
江藤淳「作家は行動する」)