( ゚Д゚)<トラウマ・マニュアル

「心的外傷の働き方は二様である。積極的なものと消極的なものと。積極的な働き方とは心的外傷にふたたび作用力をもたらそうとする努力であり、それゆえ、忘却された体験を想起する努力であって、あるいは、より正確に言うならば、忘却された体験を現実化し、その体験を新たに反復し、ふたたび体験せんとする努力である。実際、この忘却された体験が小さなころのささやかな感情関係に過ぎなかったとしても、ほかならぬこの関係を別の人物に対する似たような関係のなかに新たに復活させようとする努力なのである。このような努力は、総じて、心的外傷への固着として、また、反復強迫としてまとめられる。このような努力の現実の根拠および歴史的な根源が忘却されてしまっているにもかかわらず、あるいはまさしく忘却されているがゆえに、このような努力は、いわゆる正常な自我に受け容れられ、自我の恒常的な傾向として、自我に不変の性格特徴を与える。たとえば、現在では忘却されている過剰なまでの母親への結びつきのなかで幼い時代を過ごしたひとりの男は、彼の全生涯にわたって、彼が依存できる、また、彼のそばにいて彼を大切にしてくれる女性を追い求めることになりうる。幼児期に性的誘惑の対象になった少女は、彼女の成人後の性生活を、似た誘惑的侵襲を繰り返し挑発してしまうように方向づけてしまう。このような洞察によって、われわれが、神経症問題を超えて人格形成の理論全般にまで歩みを進めているのは容易に分かってもらえよう。
 消極的な反応は、忘却された心的外傷に関して何事も回想されてはならぬ、何事も反復されてはならぬ、という正反対の努力目標を追い求める。われわれはこれら消極的諸反応を防衛反応としてまとめている。防衛反応は主としていわゆる回避という姿を取るが、回避は、制止そして恐怖症にまで亢進しうる。この消極的諸反応もまた性格を特徴づける非常に強い働きを示す。根本において見るならば、消極的反応も、先の積極的なものと同じく、心的外傷への固着なのであって、流れの向きが逆の固着であるに過ぎない。狭義の神経症症状とは、このような、心的外傷から発生してくる二様の努力が恊働して造り上げる妥協形成物であり、そこではある時には一方の、またある時には他方の流れの向きが優勢化する。これら積極的反応と消極的反応の対立によって葛藤がつくり出されるが、これは通常の場合、決着のつけようのないものである。」
フロイトモーセ一神教』)