( ゚Д゚)<没-私-小説・2

「心身両系列のあいだには一方の他に対するいかなる優越も存在しない。だとすれば、身体をモデルにとりたまえというスピノザは、それによって何を言おうとしているのだろう。
 それは、身体は私たちがそれについてもつ認識を超えており、同時に思惟もまた私たちがそれについてもつ意識を超えているということだ。身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの意識を超えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。身体のもつもろもろの力能についての認識を得ようとするのは、同時にそれと並行的に、意識をのがれているもろもろの精神の力能を発見するためであり、両力能を対比する〔対等に置いて理解する〕ことができるようにするためなのだ。いいかえれば身体というモデルは、スピノザによれば、なんら延長〔私たちの物質としてのありよう〕に対して思惟をおとしめるものではない。はるかに重要なことは、それによって意識が思惟に対してもつ価値が切り下げられる〔意識本位が崩される〕ことだ。無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。」
ジル・ドゥルーズスピノザ──実践の哲学』)