( ゚Д゚)<今までの哲学はなんだったのか

「そしてこれらの問題の中心には誤りの問題がある。というのは、生命のもっとも根源的なレベルにおいて、コードの解読の働きは偶然にゆだねられている。それは病気や欠陥や畸型になる以前の、情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。極端な言い方をすれば──そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが──、生命とは誤ることができるようなものである。異常の概念が生物学全体を横断している理由はこうした前提条件、いやこうした根本的な偶発性に求められるだろう。こうした偶発性ゆえにこそ、突然変異や進化のプロセスが導き出される。同様に、こうした偶発性があるからこそ、生命は人間の出現とともに、けっしておのれの場に落ち着けないような生体に到達する。それは「さまよい」、「誤る」よう運命づけられている。だからこそ、特異でもあり遺伝的でもあるこの誤りを問題にしなければならないのだ。……
 この合理性の歴史家、彼自身きわめて「合理主義者」である歴史家カンギレムは、誤りの哲学者でもある。それは、誤りから出発して哲学的諸問題を提起するということである。いやむしろ真理と生命という哲学的問題と言うべきだろう。われわれは近代の哲学史の根本的な出来事のひとつに立ち会っているのかもしれない。デカルトの偉大な断絶は真理と主体の関係の問題を提起し、十八世紀は真理と生命の関係について一連の問題を導入した。まず『判断力批判』そして『精神現象学』が問題をみごとに定式化した。それ以後次のような問題が哲学的議論の争点となる。生命の認識は、真理や主体や認識の一般問題に依存するような領域のひとつにすぎないと考えるべきなのだろうか。それともこの問題を別のやりかたで提起することを強いるようなものなのだろうか。認識は世界の真理に開かれているのではなく、生命の「誤り」に根付いているとすれば、主体の理論はあらたに表現されなければならないのではないか。
 フランスにおいてさまざまな視点から主体の問題を考え直そうとしていたすべての人にとって、G・カンギレムの思想とその歴史家・哲学者としての仕事が大きな重要性を持った理由が理解できる。現象学は身体、性、死、知覚世界などを分析すべき分野として取り入れた。しかしコギト〔我思う〕は中心的なものでありつづけている。科学の合理性も生命の科学の特殊性も、コギトの基礎付けの役割をゆるがすことはできない。G・カンギレムが、生命概念への別の接近方法として、誤り、概念、生体の哲学を対置したのは、意味と主体と体験の哲学にたいしてなのである。」
ミシェル・フーコー「生命──経験と科学」)