( ゚Д゚)<えすえふ

潜在的なものから現実的なものへという進化がなされる。進化は現実化であり、現実化は創造である。したがって、生物学的進化または生命体の進化について論ずるときは、二つの誤解を避けなくてはならない。それはこの進化を、実在化される《可能的なもの》によって解釈するという誤解と、純粋に現実的なものによって解釈するという誤解である。第一の誤解は前成説のなかにはっきりと現れる。そして前成説に対して進化論がつねに優位を持つのは、進化論は生命が差異の生産・創造であることを想起させる点になる。すべての問題は、それらの差異の性質と原因の問題である。確かにこれらの差異もしくは変異を、純粋に偶然的なものと考えることも可能である。しかしそのような解釈には次の三つの反論がある。(1)それらの変異は、どんなに小さなものであるにせよ、偶然によるものであるので、たがいに外的で、《無関係》なままであろう。(2)それらの変異は外的なものであるから、論理的にはたがいの関係は結合と付加以外のものではありえないだろう。(3)それらの変異は無関係であるので、実際にはそのような関係を持つ手段さえないことになるだろう。(なぜなら、連続した微小な変異が、同じ方向につながり、付加されるという理由はなく、突然で同時的な変異が、生きた全体のなかで調和するという理由もないからである。)……
 したがって、進化論者の誤謬は、生物の変異を、唯一の同じ線上で結合されるはずの現実的な限定と考えることにある。生の哲学の三つの要求は次の通りである。(1)生物の変異は、内的な差異としてのみ体験され、考えられることができる。この意味においてのみ《変化への傾向》は偶然的でなく、変異そのものがこの傾向のなかにひとつの内的原因を見出すのである。(2)これらの変異は、結合と付加という関係を持たず、分離または分割という関係に入る。(3)したがって、それらの変異は、分化の線にしたがって現実化される潜在性を含む。その結果、進化は同質の直線的セリーのなかでの、ひとつの現実的な項から別の現実的な項へと進むのではなく、ひとつの潜在的なものから、分岐した線にそって現実化される異質の項へと進むのである。
 しかし、《根源的同一性》である単一のもの、ひとつのものが、どのようにして差異化する力を持つかという問いがなされよう。これに対する答えは、まさに『物質と記憶』のなかにすでに含まれている。そして、『創造的進化』と『物質と記憶』とのつながりは、完全に厳密である。われわれは、潜在的なものは潜在的なものとしてひとつの実在性を持っていることを知っている。全宇宙に拡がっているこの実在性は、弛緩と緊張とのあらゆる共存する段階として成立している。それは巨大な記憶であり、宇宙的な円錐体であり、レヴェルの差を除いて、そこではすべてがそれ自体と共存している。それらのおのおののレヴェルにおいて、それ固有の特徴的な点のような、何らかの《明らかな点》がある。これらのすべてのレヴェル・段階、または点は、それ自体が潜在的である。それらは、唯一の時間に帰属し、ひとつの統一のなかで共存し、ひとつの単一性のなかに包まれ、それ自体が潜在的なひとつの全体の部分を可能態として形成している。それらは、この潜在的なものの実在性である。これが、最初からベルクソンの哲学の活力となっていた、潜在的多様性の理論の意味である。」
ジル・ドゥルーズベルクソンの哲学』)