( ゚Д゚)<こんな時代にいけしゃあしゃあと

「この日、フランス上院主宰の「フランスの科学の遅滞」についての議論で、私はジャン=ピエール・シャングーと対立した。彼は、「苦しみを軽減し、世界の飢餓を克服し、伝染病と闘うという考えにも、人類が長期にわたり生き延びられる新たなるエネルギー資源を見つけるという考えにも」全く言及していないとして私を次のように非難した。「デュピュイは倫理的考察は我が国に存在しないと主張しているが、それはたしかに存在する。私は国家倫理諮問委員会の委員長をしていたが、在任中、我々は科学の進歩が社会的に及ぼす影響を多く扱っていた。科学は何の役に立つのか、その恩恵は全世界的なレベルでいかに配分されるべきか。残念ながら我々は、世界の人々の大部分が、とりわけ健康の分野において科学的知識もなく、それを利用する術もない、ということを知っている」。
 倫理、それは分配に正義があるかどうかを配慮するものである、つまりは、ケーキを公平に分配する仕事なのだ、と言い切ってしまってよいものだろうか。毒が入っていないか最初に確かめる必要はないのだろうか。人生の二〇年を社会的正義という概念を考えるために費やしてきた私のような哲学者は、この一貫性のなさに震え上がる。
 無邪気にも私は考えていた。科学は自ずと人間の幸福の方に向かうものであり、悪や破壊といった方向にねじ曲がるとすればそれはひとえに社会のせいだと主張してはばからない科学者など、一九四五年八月六日以降、一人もおるまいと。放っておけば科学者たちは平和の理解を深め、社会つまり政治はこの土台に基づいてとるべき道を決めるだろうと。このような科学の中立的価値の神話は、それでは今もなお変わらず、その幻想を暴かれねばならないのだろうか。……」
(ジャン=ピエール・デュピュイ「パリに帰って──合理主義の悲惨」)