( ゚Д゚)<るさんちまん・2

「小説の筋のすべての内的進行は、時間の力との闘争以外のなにものでもない、といっていいほどである。時間は凋落の根源である。詩、すなわち本質的なものは滅んで行かねばならないが、時間こそ、この衰滅をもたらすそもそもの張本人なのである。それゆえ、そこでは、すべての価値は、消滅して行くものであるがゆえに、しぼみゆく青春といった性格をもつ下層の側にあり、いっさいの粗暴さやいっさいの思いやりのない酷薄さは、時間の側にある。……こうして、時間は、小説の高次な、叙事詩的な詩の担い手になる。時間は有無をいわさず実在し、もはや何ぴともその流れを明白な方向に逆らって泳ぐことはできないし、何ぴともその予測しがたい流れを超越性という堤防で制御することはできない。とはいえ、なおひとつの諦めの感情は生き残るのである。これらいっさいのものはどこかからやってきたものにちがいないし、どこかに行くものにちがいない、という感情、その方向がたといいかなる意味をあらわさないとしても、とにかくそれはひとつの方向である、という感情である。そして、この割りきった男らしい感情から、あの時間体験が生まれてくる。行為をよび起こし、また行為から発するがゆえに叙事詩の正嫡ともいうべき時間体験、すなわち、希望と追憶とが生まれてくる。この二つの時間体験は、同時に時間の克服であるところの時間体験であって、希望とは、生を、事前に、凝集した統一体としてかためて見ることであり、追憶とは、生を、事後に、かためて見ながら把握することである。そして、事のさなかにある素朴で至福な体験が、小説形式とそれの生み出す時間とには許されていないとすれば、希望と追憶という時間体験は──神に見捨てられた世界において生に許されうる、もっとも本質に近く迫った体験である。」
ジェルジ・ルカーチ「幻滅の浪漫主義」)