( ゚Д゚)<The Axiom of Long Piece Novel

「「三十五歳で死ぬ男は」、とあるときモーリッツ・ハイマンは言った、「彼の人生のどの時点においても、三十五歳で死ぬ男である」。この文ほど不確かなものはない。しかしそれは、ただただ、時制が間違っているせいなのだ。ここで言わんとしていた真実は、実は、〈三十五歳で死んだ男は、想起にとっては、彼の人生のどの時点においても三十五歳で死ぬ男として現われるだろう〉ということなのである。言い換えれば、現実の人生にとっては意味をなさないこの文は、想い出された人生にとっては、議論の余地なく確かなものとなるのだ。長篇小説の人物の本質をここで言われている以上にうまく表現することはできない。この文は、長篇小説の人物の生の「意味」は、その死から見たときはじめて解明される、ということを言っている。ところで長篇小説の読者は、実際、「生の意味」を読み取る手がかりとなる人間を求めているのだ。したがって読者は、いずれにせよ、この登場人物の死をともに体験することを、前もって確信しているにちがいない。やむをえなければ〔小説中の人物が死なないのであれば〕、それは転義的な意味での死、すなわち小説の終わり、ということになる。しかし登場人物自身の死のほうが望ましい。登場人物たちは、死がすでに彼らを待ち受けていることを、どのようにして読者に認識させるのだろうか? ある特定の死が、それもある特定の箇所で待ち受けているということを? この問いこそ、長篇小説中の出来事に対して読者が抱く、身を焼き尽くすような関心を養っているものなのである。
 したがって、長篇小説が意味をもつのは、それが、たとえば教訓的に、他の人の運命を私たちに示してくれるから、というような理由ではなくて、この他人の運命が、それを焼き尽くす炎によって、私たち自身の運命からは決して得ることのできないような温もりを、私たちに分け与えてくれるからなのだ。読者を長篇小説に惹きつけるもの、それは、みずからの凍りつくような人生を長篇小説のなかで読む死において暖めたい、という希望にほかならない。」
ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」)