( ゚Д゚)<フロベールとD.H.ロレンスの交わるところ

「一八五二年の四月二十四日、フロベールは読んだばかりのラマルチーヌの小説(『グラジエラ』)についてこんな感想をルイーズ・コレに書き送った。《そもそもですよ、すばり聞くけど、彼は女と寝るんですか、寝ないんですか。あの連中は人間じゃない、マネキン人形です。肝心要のところは、ごたいそうな神秘に包まれていて、要するにどうなっているかわからない恋愛小説なんて、御立派としか言いようがない! なにしろ、飲んだり、食ったり、小便したり、というようなことと同様に、性的関係が一貫して闇に葬られているんですからね。こういう偏見には腹が立つんです。大の男が女といつも一緒に暮していて、女は男を愛し、男も女を愛しているというのに、それなのに欲望のかけらもない! あの青っぽい湖には、不純な雲が影を落とすこともないんです! おお、偽善者よ! 真実の話をすれば、ずっと見事なものになったでしょう。でも、真実を語るには、ド・ラマルチーヌ氏なんかよりもっと毛むくじゃらの男が必要です。じっさい、ひとりの女を描くより、天使を描くほうが簡単なものなんです。翼が背中の瘤を隠してくれますからね》わたしもまた、非常にしばしば、物語をまえにして同じ反撥を覚えたものだ。小説が性的な体験を省略することは、人生をただ性的体験だけに還元するのと同じように、わたしを苛立たせる(といっても後者のほうが苛立ちは少ない、すでに述べたように非現実にもいろいろあるとしたら、わたしはうんと具体的な現実ばなれを好むからである)。わたしは男の主人公が相手の女によって欲情をそそられているか(またその逆はどうか)わからなければ気がすまないし、主人公の男女が現実味をおびるためには、彼らがたがいに与え合う刺激に、わたし自身も巻き込まれることが必要だ。物語の叙述のなかで性的なことがらをいかに扱うかは、もっともデリケートな問題のひとつであり、おそらくは政治的なことがらと並んでいちばんむずかしい問題だと言えるだろう。いずれの場合も、著者と読者の両方の側に、先入観や思い込みがかなりの荷重としてあるわけだから、まるで抵抗感がないようなふりをしてそうした素材を「つくり出し」、そこに自律性を与えることは、きわめてむずかしい。自分ではそのつもりがないのに思わず賛成か反対かを表明してしまう、つまり何かを見せるかわりに論証してしまうのだ。たとえば何人かの神学者が、人間というものはたいてい姦淫のために地獄に堕ちると説く、するとそれに倣ってたくさんの小説が、同じ筋書を安易にたどって非現実に陥ることになる。『ボヴァリー夫人』の場合にも、エロチックな要素をどれだけ投入し、いかに配分すべきかという難問があったが、フロベールがこれほど腕の冴えを見せたところはほかにない。性的なものは、さまざまな出来事の土台であり、金銭と同様に、葛藤の起源を解く鍵でもある、しかも性生活と経済はじつに微妙にからみ合っているから、一方ぬきでは他方も理解できない。……性的なものがこの小説のなかで中心的な位置を占めるとしたら、それは実生活においても同じことが言えるから、そしてフロベールは、ひたすら現実らしさをめざしたからである。ラマルチーヌとちがって彼は、生物学的な現象であるものを、精神性と抒情性のなかに解消してしまうことはないが、だからといって、愛を生物学だけに還元してしまうわけでもない。彼が描き出そうとつとめたのは、一方においては、感情、詩情、仕草であり、他方においては(ずっと遠慮深くだが)エレクシオンとオルガスムであるような愛なのだ。一八五二年九月十九日のルイーズ宛の手紙に、彼はこう書いている。《あの生殖器ってやつは、人間のいろいろな優しさの根源です。これが優しさそのものだというのじゃない、哲学者だったら基体と呼ぶようなものなのです。どんな女も宦官を愛したことは絶対にないはずだし、一般に母親のほうが父親よりも子供に情愛を傾けるとすれば、それは子供が自分のお腹から出てきたからで、いわば愛情の臍帯が切れずに心に残っているわけです》」
マリオ・バルガス=リョサ『果てしなき饗宴』)