( ゚Д゚)<SUSTAINABLITY

「芸術家が創造するものは被知覚態〔percept〕と変様態〔affect〕のブロックなのだが、ただし、そのような合成態は自分ひとりで持ちこたえなければならないという唯一の創造条件がある。芸術家がそうした合成態を自分ひとりで立って持ちこたえるようにさせること、これがもっとも難しい問題である。そのためには往々にして、前提されたモデルから見れば、また体験された知覚と変様=感情から見れば、幾何学的にはありそうにもないこと、物理的には不完全であること、器質的には異常であることが多く必要になるのだが、しかしそれら崇高な誤謬は、立って(あるいは座って、あるいは寝て)持ちこたえるための内的な手段である以上、芸術の必然性に通じているのである。物理的な可能性とは何の関係もない絵画的可能性が存在するのであって、それが、このうえなくアクロバティックな姿勢に、安定する能力を付与するのである。それに反して、かくも多くの作品が、芸術たらんと欲しながら一瞬のあいだも立って持ちこたえることがない。自分ひとりで立って持ちこたえるといっても、それは、高低を維持することではないし、直立することでもない(というのも、家屋でさえもふらふらしたり、傾いていたりするからだ)。自分ひとりで立って持ちこたえるということは、創造された感覚合成態が或る行為によってそれ自体において保存されるときのその行為のことである。……
 つぎのような問題がある。麻薬は、芸術家がそれらの感覚存在を創造する手助けとなるのかどうか、麻薬は、内的な手段の一部であるのかどうか、麻薬は、わたしたちを実際に「知覚のドア」に連れていってくれるのかどうか、という問題である。そのような問題は、麻薬の影響下でつくられた合成態がほとんどすべての場合異常にもろく、おのれ自身を保存することができず、できあがるそばからまた見ているそばから壊れだす以上、すでに一般的な答が出ている。こどもの描く絵に感心したり、あるいは心を動かされたりするというのもよくあることだ。だが、こどもの絵が立って持ちこたえる場合はまれであるし、こどもの絵がクレーやミロの作品に似ていると思いたくなるのは、こどもの絵をちらっとしか見ない場合だけである。反対に、狂人の絵は持ちこたえることがしばしばある。……」
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」)