( ゚Д゚)<男の初期三十年

「個人の教養の年輪。──精神的生産力の強さ弱さは、親譲りの天分よりはそれと一緒に与えられた活力の度による方がはるかに多い。三十歳の若い教養人の大多数は彼等の生涯のこの初期の日至に当って引き返し、それ以後は新しい精神的動向に不快を抱く。だからその時すぐにまた、先へ先へと成長しつづける文化のために、一つの新しい世代が必要である、だがこれもやはりそう遠くまでは行けない、なぜなら父親の教養に追いつくために、息子は父が子をつくった時期に自身もっていただけの親譲りのエネルギーを殆ど使い果さなくてはならない、僅か余ったところで彼は先へ進むのだ(というのは、ここでは二度目に道が通られるのだから、少し速く進めるのだ、息子は父の知っていたものを学ぶのにそれと全然同じだけの力は費やさない)。……──歴史の過程の中で獲得された精神的文化の普通の諸段階に、人々はますます速く追いつくようになる。彼等は現代では宗教的に感動した子供として文化に踏み入りはじめ、恐らく十ぐらいの年頃にこの感情の熱烈さが絶頂に達し、それから科学に近づきながら、もっと弱められた形(凡神論)へと移って行く、神とか霊魂不滅とかその種のものをすっかり脱け出るが、何か形而上学的哲学の魅力に捉えられる。これもまた遂には信じられなくなる、これに反して芸術はますます多くのものを与えるように思われ、暫くの間形而上学はわずかに芸術に変形して、或は芸術的に浄化する気分として辛うじて残り、生き続けている。しかし科学的精神がますます支配的になり、その男を自然科学と歴史へ、とりわけ最も厳密な認識方法へ導いて行き、一方芸術に当てられる意義はますます寛容に、求めるところが寡くなって行く。こういうすべてのことが今では一人の男の初期三十年内に起るのが常である。これは人類が恐らく三万年も骨身を削って来た作業の簡略な反復である。」
ニーチェ「高い文化と低い文化の徴候」)