( ゚Д゚)<走らないアスリート

「どうすれば、世界の一瞬間を持続可能にすることが、あるいはそれ自身で現存させることができるだろうか。ヴァージニア・ウルフは、エクリチュールばかりでなく絵画や音楽にとっても価値があるひとつの答をだしている。「それぞれの原子を飽和させること」、ありふれたそして体験されたわたしたちの知覚に貼りついているすべてのものを、小説家の糧を平凡なものにしてしまうすべてのものを、「屑にすぎないすべてのものを、死を、そして余分なものを排除すること」、わたしたちに被知覚態を与えてくれる飽和だけを守ること、「瞬間のなかに、不条理なものを、諸事実を、汚いものを、ただし透明する処理をほどこしたかぎりで、含めること」、「そこにすべてを置くこと、けれども飽和させること」。「聖なる源泉」としての被知覚態に手が届いたからには、そして生きているもののなかに《生》を、あるいは生きられたもののなかに《生きているもの》を見てとったからには、小説家は、さもなくば画家は、目を真っ赤にし、息を切らせて戻ってくる。彼らはアスリートだ。なるほど多くの作家が、スポーツに芸術と生を高める手段を見ないわけではなかったが、彼らがアスリートだといっても、体を鍛えあげて体験を養ったようなアスリートではない。むしろ、「断食芸人」あるいは泳げない「偉大な泳ぎ手」というタイプの奇妙なアスリートである。有機的または筋肉的ではない《陸上競技》、他者の非有機的な分身でもあるような「変様の陸上競技」、おのれの力ではない力だけを開示する生成の陸上競技、「可塑的なスペクトル」。この点で、芸術家は哲学者のようなものである。彼らの健康は、多くの場合、あまりにも弱くもろい。しかしそうであるのは、病気のせいでも神経症のせいでもない。それは、彼らが、生のなかに、誰にとっても何か大きすぎるもの、彼ら自身にとっても何か大きすぎるものを見てしまっているからであり、この何ものかが、彼らに死の密やかな烙印を押してしまっているからである。だが、この何ものかがまた、生きられたものの病をつらぬいて彼らをなお生きさせるあの源泉であり、あの息なのである。」
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」)