( ゚Д゚)<What am I looking at?

「私がある事物を、たとえばこの箱を見ているとしよう。そのとき私は私の感覚を見ているのではない。この箱の向きを上下左右どのように変えようと、私は常にこの同一の箱を見ているのである。そのとき私は──知覚された対象を意識内容と呼びたいのなら──引きつづき同じ《意識内容》を所有している。しかし体験された内容を意識内容と呼ぶ方が〔知覚された対象をそう呼ぶよりも〕ずっと適当であるとすれば、箱の向きを変えるたびに私は新しい意識内容を所有することになる。つまり非常に異なる諸内容が体験されながら、しかも同じ対象が知覚されるのである。したがって一般的に言えば、体験された内容それ自身は知覚された対象ではない。ここで注意すべき点は、対象の現実的存在ないし非存在は、知覚体験それ自身の本質にとっては、したがってまた、知覚体験が〈特定の仕方で現出し、これこれのものとして思向される〔vermeinen〕対象〉の知覚であるということにとっても、重要ではないということである。更にまた、体験された諸内容が変動しても、われわれは同一の対象を知覚的に把握していると臆測する〔vermeinen〕こと自身も、これまた体験領域に属する事柄である。つまりわれわれは《同一性意識》すなわち〈同一性を把握していると思う、この臆測〉を体験するのである。そこで私は、この意識の基礎にはいったい何があるかを、次に問うてみたい。この疑問に対して……確かに双方にはそれぞれ異なる感覚内容が与えられてはいるが、しかしそれらは《同じ意味で》統握され、統覚されているのであり、この《意味》では統握は《私に対する対象の存在》を初めて形成する一つの体験性格である……と答えたならば、それは正しい答えではなかろうか?」
エドムント・フッサール「志向的体験としての意識」)