( ゚Д゚)<息子は選べない

「多産性は、存在論的カテゴリーとして設定されなければならない。自己への〈私〉の回帰は、同一的な主体という一元論的概念を具体化するものであるけれども、この回帰が、父性という状況において完全に変容される。息子は、詩やオブジェのように、ただ私の作品なのではない。息子はましてや、私の所有物ではない。権能にぞくするさまざまなカテゴリーによっても、知のそれによっても、子に対する私の関係は記述されない。〈私〉の多産性は原因ではなく、支配でもない。私はじぶんの息子をもつのではなく、私自身が私の息子なのである。父性とは、他者でありながらも私であるような異邦人との関係である。「そのときなんじ、こころのうちに言わん/たれかわがためにこれらの者を産みしや/われ子を失いて、ひとり居たるに」(「イザヤ書」四十九章)。つまり、自己でありながら私ではないものとの、〈私〉の関係が父性なのである。「私自身が私の息子である」という場合の「私は〜である」にあって、存在はもはや〔パルメニデス以来の〕エレア派がいう統一性ではない。存在することそれ自体において、多数性と超越がある。この超越は、〈私〉がそこにはこび去られることのない超越である。息子は私ではないからである。にもかかわらず、私は私の息子なのである。〈私〉の多産性とは、〈私〉の超越にほかならない。」
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』)