( ゚Д゚)<西洋隠喩布置

「しかし、ここにいう伝統は単に神学の伝統なのだろうか。ここには二重の問いがはらまれている。まず、ある遺産の出所は引き受けることなく、この遺産を運搬するのは単に神学だけだろうか。第二に、この変装を施された遺産をハイデガーが受け取ったのは単に神学(ある種の神学)からだけなのだろうか。いずれの問いも否定的な答えを有しているように思える。ただし問いは微妙である。というのは、ヘブライの遺産とハイデガーとのあいだに別の数々の「経路」を思い描くことができるとしても、そうした経由地を神学的構築物においてほど明確に切り取ることはできないからだ。なるほど、この遺産の痕跡を担い、それを運搬したのは西洋の文化全体である。見事な考察を展開した箇所で、ジョージ・スタイナーは、われわれの身元を表すありとあらゆる指標について、いかにわれわれがギリシャ人たちに依存しているかを思い起こさせている。われわれは「海に落ちた暗赤色の影」も「緑の炎」もギリシャ人たちに負うており、「獅子のごときわれわれの心と狐のごときわれわれの狡知も彼らに属している」。けれども、ただちにつけ加えなければならない。われわれの反抗はヨブの反抗であり、われわれの子供たちはジュディット、ダニエル、マチューと名づけられている。われわれはメトシェラと同じくらい老いており、エレミアのように悲嘆に暮れ、われわれの許嫁たちの唇はいつもザクロの実の色をして密の匂いを放っている。われわれの詩は〈言葉〉について聖書から受け継がれた考え方を証示しており、われわれの道徳は、オリーヴの丘で生まれた場合を除くとシナイ山で生まれたのだった。そして最後に、哲学それ自体がヘブライの記憶の大部分をいわば短調で運んでいるのではなかろうか。」
(マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーヘブライの遺産』)