( ゚Д゚)<FIRST KISS → 戦争

「ここで、私は、「イデア〔内面に明滅する言語化以前の思想〕」がいきなり行動化コースに入ることもあると指摘したい。おそらく、このことは不当に軽視されている。日常生活においても社会的にも、行動の説明責任 accountability が果たせないのは、このコースがあるからである。「よかれと思った」「大丈夫と思った」といわれるような場合、はっきり言語化、表象化されてから行動に移ったのではなさそうである。これは家庭内暴力や一部のハラスメントの底にあり、一種の合理化のもととなっている。
 別に破壊性だけではない。キスなどのエロス的行動化も、この経路がむしろ普通であり、自然である。それに相応する雰囲気があらかじめ存在することもあるが、ムードが一挙に生まれる場合もある。むしろ明確なイメージや言語化をとおる計画的行動化にはどこかウソくさいところがある。無記名の情調性の高まりの後は「火花」である。多くの人が経験してきたさまざまな「踏み越え」の複雑微妙で多様な要素のほとんどは一見きわめて単純で無邪気にみえる「最初の接吻」に至る過程に含まれているといえるかもしれない。この種の移行は「短絡的」あるいは「無意識的行為」と言い去られやすいが、さまざまな局面で個人的、社会的な重要性を持つと私は思う。多くの人生決定がこの形でなされ、理由づけ(合理化)が後を追う。このコースが決定する人生と社会の幸不幸は大きく、しかも取り返しがつきにくい。そもそも、人生に不可避的で大きな決定を指す「企投」「アンガージュマン」という言葉はこれを指すものであろう。戦後「話し合い」が強調されたのは、これと対立し、これを回避しようとするものであるが、それは戦前に問答無用的強行が多すぎたからであろう。
 戦争こそ、明確な言語化やイメージ化を経由せずに行動化される最たるものである。四年三ヵ月にわたって不毛な会戦を反復し、ヨーロッパに回復不能の打撃を与えた第一次大戦は、双方とも一ヵ月で終わると思って始まった。日中戦争は南京陥落で終結するはずであった。」
中井久夫「『踏み越え』について」)