( ゚Д゚)<人生選択の(不)自由・4

ギリシア悲劇ばかりではない、シェイクスピアの悲劇でも、イプセンの悲劇でも、何が私達を感動させているか合理的には説明は出来ないが、それが人間の運命という或る統一ある感情の経験である事は疑えないように思われる。悲劇を見る人は、どうにもならぬ成行きというものを合点している。あの男が、もっと悧巧に行動したら、或はあの時、別な事件が起ったら、こうはならなかったであろう、そんな事は考えない。すべては定まった成行きであったと感ずるのであるが、この時私達は、ある男の、ああなるより他はない運命に共感するのであって、決して事物の必然性というものに動かされているのではない。成る程外的な事物の必然性が、人間の内的な意志とか自由とかを挫折させなければ悲劇は起らないのであるが、悲劇の観者の感動は、この人間の挫折や失敗に共感するところに起る。これはこの挫折や失敗が必然であると感ずる事に他ならないのだが、この必然性の感覚なり感情は、理性の理解する因果必然性とは性質が全く違うのである。悲劇を見る人は、事件の外的必然性の前では、人間の意志や自由は無意味になるという考えを抱く事は決して出来ない。むしろ全く逆の感情を味わうのである。人間の挫折の方にも外的必然性が順応しているという感情を、どうしようもなく抱かされるのである。不幸も死も、まさにそうでなければならぬものとして進んで望まれたものだ、という感情を抱く。悲劇ばかりではない、悲劇的な小説の傑作、例えば「ボヴァリイ夫人」を読むものは、主人公が自殺に向ってどうしようもなく追いつめられるのについて行きながら、それが即ち主人公の憧憬や意志の必然性に他ならぬという感情を抱く。「罪と罰」の主人公は、まさに誤るところなくまた他にどうしようもなく自分自身の不幸を自ら創って行くように見えます。つまり運命というものが描かれているのを感ずるのである。」
小林秀雄「悲劇について」)