( ゚Д゚)<旧約聖書の政治性

「しかしその考え方を考慮に入れてもなお、エロヒム資料の作者の物語の真実性への関係は、ホメーロスのそれよりも、より熱烈で一義的に明白である。聖書の語り手は、伝説の真実性を信じることによって、啓蒙主義的立場からいわせれば、その真実性に関心を持つことによって、彼に要請されることを正確に書かねばならなかったのである。そしていずれにせよ、彼の創作あるいは表現の想像力はきびしく限定され、彼の活動は必然的に、聖なる伝説の効果的な編集にとどまらねばならなかった。したがって彼の創作は元来「現実性」を目的としたものではなく、真実を目的としたものである。たとえ「現実性」という点で成功しているとしても、それは目的ではなくて手段にすぎない。真理を信ぜぬ者に禍あれ! ホメーロスを読むに当って、トロイア戦争オデュッセウスの放浪の話の歴史的事実が完全に信じられなくても、ホメーロスが意図した文学的硬化を楽しむことはできるであろう。しかし聖書の場合、アブラハムの燔祭の話の真実性が信じられなければ、そこに意図されている効用は成就されることはない。いや、さらに極端ないい方をするならば、聖書の場合物語の真実性の要求は、ホメーロスの場合よりもはるかに強いばかりでなく、暴君的だとさえいえるのである。それはあらゆる他の要求を退ける。しかも、聖書の物語の世界は、その歴史的事実の真実性を要求するだけでは満足せず、みずから唯一の真実な、独裁権をもった世界であると主張する。聖書の物語以外のすべての場面も出来事も秩序も、この世界から独立して存在する権利をもたず、それらのすべて、すなわち全人類の歴史は、この枠内でこそ真の秩序を与えられるし、また、これに従属させられるように約束されている、というわけである。このように聖書の物語は、ホメーロスのそれのようにわれわれを楽しませ魅惑しようとしてこびへつらうことは決してない。それらはわれわれを従属せしめようとするのであって、それに従わなければ、われわれは叛逆者なのである。聖書の物語についてのことのような見解はあまりにも行きすぎであり、独裁権を要求するのは物語ではなくて、その中の宗教的教義なのである、と抗議する人があるかもしれない。しかしこれらの物語は、ホメーロスのそれのような、単に物語られた「現実」ではないのだ。これらの物語の中では教義と約束が肉化しており、分かちがたく物語の中に溶けこんでいる。それだからこそこれらの物語は背景をそなえていて解し難く、もう一つの秘められた意味をもっているのである。……
 そこで、聖書の物語の本文がそれ自身の内容から解釈をもとめているとすると、この物語の独裁権の要求もまたより以上の解釈を必要とする。それはホメーロスの作品のように、ほんの一時のあいだわれわれにわれわれが所属する現実を忘れさせるのではなくて、われわれの現実のすべてを克服しようとする。われわれは、この世界にみずからの生活を接合し、われわれ自身をその世界史的構造の一部として感じなければならない。……」
(エーリッヒ・アウエルバッハ「オデュッセウスの傷痕」)