( ゚Д゚)<恋はストロベリー

「愛は与えるゆえに豊かなのである。したがって愛は本質的に高邁なのである。強いられてやむをえずの高邁なのではない。人間の精神の最も高い部分から是認されなければ生まれえないものが、愛なのである。アルセスト〔モリエール「人間嫌い」の主人公〕が自分の愛に憎しみと怒りがまじっていなくはないことを見せるものだから、せっかくの告白が申し分なく嬉しい言葉とはけっして受けとれず、ちょっとした言葉のはしばしにひっかかって、セリメーヌは屈辱を感じてしまう。ところが、セリメーヌがもっている程度のコケットリーはいつも、相手に打ち勝つことを、つまり男に屈辱を与えることを狙っている。しかし、男は恋の鎖につながれている。そのアルセストにしてみれば、セリメーヌを信頼できぬ理由がかずかずあるのだが、セリメーヌにしたところで、アルセストを信頼できぬ理由がかずかずある。あいこというわけである。真実の恋に、つまり、お互いがなんの偽りもない心を通いあわせている恋に陥っている男女の争いというものは、これとは違うもう一つの法則に従って展開する。その争いは、いわば羞恥のなせる業であって、お互いが相手に対して無関心だと言いっこすることから起る争いである。そこにあらわれているものは、お互いはお互いに無理強いはしたくないという考えである。相手に対する権利はいっさいもたない、相手の自由はいっさい犯したくない、というわけである。相手にうるさがられたり、暴君みたいに思われはしないかという心配(それは礼儀でもあるのだが)、それが増大してくるのである。相手がこちらに服従しようなどという気を起こすと、さもいとわしげにはねつける。相手の気にいられようとする負い目など抱かないで愛されたいためにこそ、かえって相手の気にいらないことばかりしでかそうとする。だが、こういう自由なダンスみたいなものをすることによって、恋は新たに燃えさかる。そこでは、仲たがいなどは表面だけのものである。ところが、アルセストたちのような恋にあっては、仲直りこそが表面だけのものなのである。」
(アラン「コケットリー」)