( ゚Д゚)<プルーストの時間・2

「……《私は眠る》と述べることは、文字通り、《私は死んだ》と述べるのと同じ位不可能なことだからです。エクリチュールとは、まさに、このような、言語に──言語の不可能性に──手を加え、言述を生かす活動なのです。
 この眠りは(あるいは、この半覚醒は)何を引き起こすのでしょう。《誤った意識》へと導きます。あるいは、むしろ、紋切型を避けて言えば、調子はずれの意識へと導きます。つまり、変調の、揺れ動く、間歇的な意識です。「時間」の論理的な甲殻が攻撃されます。一つの単語を二つの部分に分けていえば、もう時間の論理〔クロノ=ロジー。年代順〕はありません。《眠る人(半覚醒というあのプルースト的な眠りを眠る人という意味です)は、自分の周囲に、時間の糸、歳月や世界の秩序を輪のようにめぐらせている……が、その配列はこんがらがり、切れてしまうこともある》。眠りは別の論理を創設します。「揺れ動き」の、「隔壁除去」の論理です。それはプルーストが、マドレーヌの、というより、『サント=ブーヴに反対する』の中で(つまり、『失われた時』より前に)語られているように、ビスコットのエピソードにおいて発見したものです。《私はじっとしていた。……すると、突然、揺れ動いていた私の記憶の隔壁が崩れ落ちた》。もちろん、このような論理の革命は愚かしい反応を引き起こすことしかできません。オレンドルフ出版社の原稿審査係だったアンブロは『スワン家の方へ』の原稿を受け取って、こう述べています。《私は頭が鈍いのかもしれません。しかし、一人の男が眠る前にベッドで輾転反側する様を三十ページも読むことに何か得る所があるとは思えません》。しかし、得る所は大です。「時間」の水門を開くのです。時間の論理が揺さぶられると、知的なものにせよ物語的なものにせよ、断章が「物語」、あるいは「論理」といった先祖伝来の法則から免れた一つの連続体を形成します。そして、この連続体は、苦もなく、「エッセー」でも「小説」でもない第三の形式を生むでしょう。」
ロラン・バルト「《長い間、私は早くから床についた》」