( ゚Д゚)<正しい食欲!

「〈いい〉とは、ある体がこの私たちの身体と直接的に構成関係の合一をみて、その力能の一部もしくは全部が私たち自身の力能を増大させるような、たとえばある食物〔糧となるもの〕と出会う場合のことである。私たちにとって〈わるい〉とは、ある体がこの私たちの身体の構成関係を分解し、その部分と結合はしても私たち自身の本質に対応するそれとは別の構成関係のもとにはいっていってしまうような、たとえば血液の組織を破壊する毒と出会う場合のことである。したがっていい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの・合わないものという客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、当の人間自身の生の二つのタイプ、二つのありようを形容する主体的・様態的な意味ももつようになる。いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)といわれるのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能を増大させようとする人間だろう。〈よさ〉とは活力、力能の問題であり、各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だからである。わるい(隷属している、弱い、分別がない)といわれるのは、ただ行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受けとめるばかりで、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、嘆いたりうらんだりしている人間だろう。いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかもおかまいなしに、ただやみくもに出会いをかさねていては、どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことができるだろうか。どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、自身の毒素や害毒をまき散らしてその輪を広げずにはいられるだろうか。ひとはもう自分でも自分がわからなくなってしまうことさえあるのである。
 かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解の方法である。」
ジル・ドゥルーズスピノザ──実践の哲学』)