( ゚Д゚)<ブルジョア魂・3

「──ところで不幸な人達のあの要求を別に愚鈍や知的欠陥、不幸の伴ってくる一種の精神障害とは見ずに、或る全然別なもっと懸念すべきものと解するならば、この同情を抱くことを恐らく一層強く戒めることができよう。むしろ子供等を観察してみ給え、彼等は同情されんがために泣き喚く、だからつまり彼等の状態が人目につく瞬間を待とうとしているのだ、病人や心の重荷に苦しむ人達とつきあって暮し、その雄弁な哀訴や泣言、不幸の見せびらかしなどが結局は居合わす人々をつらがらせることを目当てにしているのではないかと自問して見給え、居合わす人々がその時表わす同情が弱い苦しむ人達の慰めとなるのは、彼等がそれで自分達はいくら弱くとも少くともまだ一つの力があると思い知れるせいだけなのだ、つまりつらがらせる力である。不幸な者は、同情の証言が彼に意識させるこの優越感で一種の快感を手に入れる、彼の自惚れが頭をもたげる、自分は今でもやはり世に苦痛を与えるだけの大切なものなのだ。そんなわけで同情されたがる渇望は自己陶酔、しかも隣人の懐を痛めての自己陶酔の渇望である、それは人間のぎりぎりの髄の可愛い自我のあたり構わぬ根性をありったけまるだしに見せるものだ、だが別にラ・ロシュフーコーの言うように、その「愚鈍さ」のしるしとはいえない。──会合の対話ではあらゆる問、あらゆる答の四分の三は、相手を一寸ばかりつらがらせるために出される、それだから多くの人があれほど会合を渇望するのだ、会合は彼等に自分の力を感じさせる。悪意が力を利かせているそういう数限りないしかしごく微量ずつの服用薬として、会合は人生の強力な刺激剤の一つである、丁度同じ形で人間世界に遍く行きわたっている好意がいつでも用意のできている治癒剤であるのと同様である。」
ニーチェ「道徳的感情の歴史のために」)