( ゚Д゚)<他者の飢え

「ポワリエ 《在る》(il y a)の概念をハイデガーの「在る」(es gibt)と関連づけて理解することは可能でしょうか?
レヴィナス できません。これはハイデガー的な「在る」ではありません。ハイデガー的な「在る」は肥沃性です。これは後期ハイデガーの大テーマですが、存在はみずからを名に秘匿したまま贈与します。けれども、豊饒性として、あふれるばかりの善性としてみずからを贈与するのです。それに対して《在る》はその無関心(indifference)において耐えがたいものです。それは不安というのではなく、ある種の終わり無いことに対する、意味を剥奪されたある種の単調性に対する、恐怖なのです。恐るべき不眠です。私たちが小さいころ、私たちは大人たちの世界から無理やり引き離されて、少し早めにベッドに入れられました。そのとき、沈黙のなかに一人ぼっちでいて、カーテンが動くともなく動いているように、不条理な時間が単調に時を刻んでゆくとき……。私が『実存から実存者へ』で果たそうと試みたのは、この無名の「無-意味」(non-sens)からの、なんらかの脱出路の経験を探究することでした。
 ……
 けれども、その本の最終部において、存在の真の基体──《在る》からの真の出口──は責務のうちに、「他者のために、他者の身代わりとなること」のうちにあり、それが《在る》という無-意味性のなかに一つの意味を導入することになる、という本質的な考え方が示されてます。他者に臣従する自我という考え方です! この倫理的な出来事のうちにすぐれて主体的であるような誰かが出現します。これが、そののち私が語ることになるすべての結節点となりました。本の前半は主体の問題をめぐり、終わりのほうになって他者が現れてきます。自我はつねに自我であって、自分のことだけを配慮しています。例の存在に固執する存在です。他者、それは自我からの出口です。食べること、食べることに喜びを見いだすこと、自分のうちに充足していること、それは忌まわしいことです。けれども他者の飢え、それは神聖です。」
エマニュエル・レヴィナス『暴力と聖性』)