( ゚Д゚)<見えるものを読む

「これらのイメージに、いわば「不注意を向ける」方法は二通りある。ひとつにはそれらを肥大化させ、そこにすべてを見ようとするもの。要するに恐怖のイコンをそこから作り上げようとするものである。このためにはオリジナルのプリントを見栄えのするものにしてやる必要があった。これらのイメージを完全に作り変えることも、そのためならば厭われはしなかった。こうして戸外のシークエンスの最初の一枚が、一連の操作を被ることになった。まず右下隅の部分が拡大された。続いて撮影時には不可能だった通常の条件を取り戻させようと、傾きを修正された。それからトリミングされ、切り離された(残りすべてのイメージは廃棄物になった)。ひどい場合には前景のふたりの女性の顔や体が修正され、ひとりの顔はでっち上げられ、乳房が膨らまされさえした……。常軌を逸したこの手口──私はそれが誰の手によるものかも知らないし、どんな善意があったのかも分からないが──には、イメージそのものにおいては運動や混乱、出来事でしかないものに、目鼻を与えようという、狂った意志が見て取れる。このようなイコンを前にして、ひとりの生存者が自分の意中の女性の姿をそこに認めたと信じたとしても、驚くに値することだろうか?
 もうひとつの方法はイメージを還元し、濃縮しようとするものである。恐怖についての資料をしかそこに見ようとはしない。普段は自らの研究資料に敬意を払う文脈──歴史学──であるはずながら、非常に奇妙に思われることに、ゾンダーコマンドによる四枚の写真はしばしば、最初の状態よりも情報の多いものとするために、改変が加えられたのだ。「見栄えのある」ものにして「目鼻をつけ」るための、もうひとつのやり方である。とりわけ顕著なのは、最初のシークエンスのふたつのイメージが、頻繁にトリミングされたことである。おそらくこの操作には、「見るべきもの」を切り取り、非資料的な重みを取り除いて映像喚起的な要素を純化することで、接近しようという──善意で無意識の──意志が込められている。
 だがこれらの写真をトリミングすることでわれわれは、形式的、歴史的、倫理的かつ存在論的な操作に、一挙に手を染めているのである。屍と焼却溝の光景を取り巻く黒い塊、何ひとつ目に見えないこの塊は、実のところ残りの感光した表面のすべてを同じくらい貴重な、視覚的刻印なのだ。何ひとつ目に見えないこの塊は、ガス室の空間である。つまりそれは戸外での、焼却溝の上でのゾンダーコマンドの仕事を明るみに出すためにそのなかに身を隠さなければならなかった、暗い部屋である。この黒い塊がわれわれに差し出しているのはすなわち、状況そのもの、可能性の空間、ほかならぬこれらの写真の存在条件である。ましてや明るい「情報」(目に見える証明)のために「影の部分」(視野の塊)を切り落すことは、あたかもアレックスが広々とした場所で落ち着いて写真を撮ることができたかのようにすることだ。これは彼が冒した危険と、抵抗運動家としての彼の術策に対する、侮辱と言っても過言ではない。これらのイメージをトリミングすることで、資料(目に見える結果、明白な情報)は保存できると考えられたのかもしれない。しかしそれによって現象学が省略され、これらのイメージをひとつの出来事(ひとつの工程、ひとつの仕事、ひとつの肉弾戦)にしていたものすべてが取り除かれてしまった。」
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「歴史の目の只中で」)