( ゚Д゚)<Remembrance of Images Lost・2

「そこで、ラッセルの想定〔この世界は、われわれの記憶や、化石や、古文書といった、過去の存在を証拠だてるすべてのものとともに、じつは五分前に突如として生じた〕にもどって考えてみると、この想定はふつう、現時点において過去の存在を証拠だてているものがじつはすべて五分前にできた、というふうに理解される(ラッセル自身がそう理解しているのだから当然のことだけど)。そう理解されるなら、過去というものがまずあってそれが現在に記憶をはじめとする痕跡を残すという構図が崩せない以上、ラッセルに反して、これが可能な事態であることは疑う余地がないのではあるまいか。なぜだかわからないが、この種のことを言うと躍起になって反論したくなる人がいるのだが、正直のところ私には、これが可能な事態であるどころか、実際にもその種のことは起こっているんじゃないかと思えてしかたがない。
 この意味では、世界が五分前に生じたなんてことは、いくらでも可能なことにすぎない。しかし重要なことは、そんな突飛なことが、可能なこと、ありうること、そうかもしれないこと、とされてもなお、不可能なこと、ありえないこと、そうかもしれなくないことは、やはりあるということだ。……たとえば、現在における過去の痕跡(たとえば記憶)だけではなく、過去そのものもまた五分前にできた、というような想定である。とりわけ、現在にまったく痕跡を残していない過去そのものも五分前にできたという想定だ。」
永井均『私・今・そして神』)